どう?というエースの問いかけには答えられなかった。
何も言えずに立ち尽くしている俺を横目で見たエースはそんな俺をからかうこともせず、控えめに、嬉しそうな笑みを浮かべててきとうな岩に腰を下ろした。
風の強い日だったが、えぐれたような3、4メートルほどの岩壁に囲まれたそこはほとんど風を感じることはなく、それでいて日のあたる、まったく美しい自然の庭園であった。茂っているのは冬にも負けぬ安っぽい雑草ばかりだったが、とても高貴なもののように自身を誇っているようすが伺えた。
大きな岩に後ろ手に手をつき空を仰ぎ見るエースの傍に寄ってその頭を抱き寄せ、あたまのあちこちにキスをした。

「おまえは本当に最高だ」

エースはくすぐったいと声をあげて笑う。俺は最後にその顎をすくって唇にしっかりと深いキスをして、指の腹で流れ出た唾液を拭い、地面にトランクをおろした。待ってろよ、というみたいにエースの膝をぽんぽん叩き、トランクを開けると、今度はエースが興味津々に感嘆の声を漏らした。
冬には1羽の蝶を見つけるにも苦労をするが、ここには見る限り4、5羽の蝶が飛び舞っていた。特別な種類の蝶でもないし、特別に美しいというわけではなかったが、それはとても神秘的な光景であった。
俺はマフラーを取って、コートを脱ぐ。寒かったが、動くには厚手のそれらは邪魔であったし、俺は興奮しきっていたので寒さはそんなに気にならなかった。
エースが後ろでボトルを開け、水を飲む音が聞こえた。俺の口の中はからからに乾いていたが、喉はうっとりと固い唾を体内へ流していった。



専用の小さな虫かごに4羽の蝶をおさめる頃には、エースは岩の上に仰向けになり、その腹に組んだ両手を乗せて眠ってしまっていた。俺はちいさく笑う。慈しむように額にかかった髪を撫でつけて、その横に腰掛けた。蝶を地面に置くと、最初こそぱたぱたと動き回っていたがそのうちおとなしくその羽を閉じた。
眠るエース。
動かない蝶。
遠くで風が山を撫でる音。
平穏を感じるのは久しぶりだ。時間の流れがゆっくりとして、時計を見ることがもったいなく感じる。眠るエースの髪をもう一度撫でて、肩まで手をおろし、そのまま冷えて冷たくなってしまっている手袋をはめていない指先に触れた。
俺は泣きそうになって、彼の手に触れていないほうの手で両目を覆った。この時間は美しすぎた。美しすぎるものを見ると、魅せられた感動でも失う不安でもなく、どうしようもなく泣きたくなる。感情とは厄介なものだ。この気持ちをどうすることもできない。幸せとはまた違うような気がする。ただこの時間が美しかったのだ。
俺はコートを着てマフラーを巻き、蝶の入った小さなケースをトランクに入れた。地面に座り込み、それをクッション代わりにして岩に背を預ける。空には雲ひとつなかった。嘘みたいな快晴だった。



「マルコ」

俺は眠っていなかったが、聞こえたエースの声がひどく非現実的に感じたので気をどこか遠くにやってしまっていたらしい。
返事をしなかったが起きていることを示すように緩く首を振れば、頭上から伸びたエースの指先が軽くおれの毛先を弄んだ。

「帰る?」

俺は正面を向いたまま手を伸ばし、俺の髪を梳くエースの手に触れた。それは冷たく、かさかさに乾いていた。

「ああ」

エースは髪に触れるのをやめ、俺の手を握る。俺も握り返す。とくべつな言葉もないし顔も見えていないけれど、互いの手から伝わる何かがあった。その何かを言い表すふさわしい言葉は見つからない。ただ雨の翌日のまだ重い雲の残る空にのぼる太陽の光、風でゆらゆらと揺れる炎の残像、石鹸で洗ったばかりの足、電話を切ったあとの耳に残る微かな相手の息づかいの余韻、枕に残るあたたかな体温のようなもの。

「帰ろう」






湖が見えてきたとき、エースはここで俺が別れるのだろうと足を止めたが、俺はさも当然のようにエースの家の方角へ歩み続けた。エースが追って来ないので振り向くと、彼は何か言いたそうにしていたが結局何も言わずに走り寄ってきて隣に並んだ。そしてまた当然のように鍵なんてものがないエースの家の扉を開けると、彼は熱いコーヒーをつくってくれた。

俺は生きた蝶の入ったケースをテーブルの上に置いて、腕を組んでじっと眺める。3羽は生きたまま飼うことにして、1羽だけ標本にしようと思い、その1羽をどうするか見定めた。大きさ、羽の色や模様、触覚の具合、それらを慎重に吟味する。できればあまりきれいすぎない羽がいい。きれいすぎるとそれは死を与えた瞬間生をなくす。今にも飛び回りそうな、現実味のある羽を持ったものがいい、それはきれいすぎてはだめなのだ。
俺がトランクから小さなアルミ製のケースを取り出すとエースは興味深そうに煙草をくわえた顔を近づけてきたが、その中に注射針があるのを見て取るとさっと距離を取った。

「見たくねえか」

「できればな」

俺がふっと笑うとエースは鼻を鳴らした。
再度トランクをあさり、黒いケースからスコープを取り出す。ダイヤルを回して調整をしながら視線をちらと上方に送ると、エースがこちらに気取られないように興味深そうな目でようすを伺っているのが目に入る。かわいい男だ。俺は笑んでしまいそうになる唇を引き結んで調整を済ませた。

「あんたは」

「ん?」

「あんたはどうして、そんなもんが趣味なんだ」

スコープ越しに見るエースの顔はひどく歪んでいた。本当にそこに現実のエースがいるのか不安になるくらいに。
俺はスコープをクロスの上に丁寧に置き、肉眼でエースを見る。彼はちょっと困ったような顔をしていた。彼の指先にある煙草はすこしでも動いたら灰が床に散ってしまいそうだった。

「それはつまり?」

「あ、いや、悪趣味って思ってるわけじゃない」

「思ってんだろい」

「いや…まあ、俺には理解できねえなって思うけど。だから知りたいんじゃねえか」

俺が気分を害したと思ったのか、エースは必死に首を横に振った。俺が首を傾げると、観念したように小指で気まずげに唇を掻く。
俺は特に気を悪くしたわけではないことを示すようにできるだけやわらかかく目を細める。エースの煙草からはついに長くなった灰が散った。彼は一瞬そちらに意識を遣ったが、別段気にとめていないようだった。

「自分でもよくわからねえが、きっと、永遠へのあこがれ」

エースはすこし考え込むみたいに視線を下へと落とす。俺はしばらくエースのことを見ていたが、彼は何も言わなかった。下を見たまま鼻をすすると、数秒俺を凝視し、にっこり笑った。

「昼飯をつくるよ」




テーブルに置かれたのは朝と同じバスケットだったが、入っていたのはパンではなくフルーツだった。正直これを朝に欲しかったと思ったが、黙ってかじった。
その間にエースは昨夜と同じ鍋を持ってきた。大きく切ったパンを浸したチーズのスープ。そしてまた昨夜と同じようにゴブレットに葡萄酒を注いだ。グラスには野菜スティックがいかにも無理矢理といったかんじで不格好に刺さっていた。
エースは食事をしながらサボの話をした。彼と過ごした幼少の記憶を。それは子どもらしく、しかし同時におとならしくもあった。俺は仕事の話をし、その課程の船旅の話をした。エースはとても楽しそうにそれを聞いていた。

「なあ、エース。情けねえ話だが、俺は緊張してる」

会話が途切れて一瞬の間ができると、俺はそう切り出した。無意識にそう口走ってから、俺は本当に自分が緊張していることに気が付いた。
エースはぽかんと不思議そうに俺を見ている。彼の口からはくわえたセロリがはみ出していた。

テーブルに置いた封筒に乗せた自分の手が震えていないことにほっとする。手汗ですこし皺になってしまっているその封筒をエースは凝視する。俺がそれから手を離すと、エースはそれに触れた。

「開けなくても、だいたいわかる」

とエースは言った。
唇は笑みを形作っているが、眉は困ったように下げられており、どこか焦ったように混乱している頭では彼の真意を読みとることができない。
沈黙がしばらく流れ、エースは封筒に置いた右手をぎゅっと握った。左腕で顔を覆うと、彼は泣いた。俺はたまらなくなって立ち上がり、力いっぱいエースの肩を抱き寄せた。俺の胸のあたりで、彼は嗚咽を漏らした。泣くな、泣くなと言うようにひたすら彼の髪にキスをおとす。しかし彼は泣きやまず、嗚咽がひたすら家の中を支配した。
どうしようもなく彼が愛しくて、俺はエースの頭に顎をのせて目を閉じた。




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