うっすら目を開けるとほとんど光を見て取れなかったので再び目を閉じた。
あまりの寒さに毛布を引き寄せて顔を埋め、鼻をすすると、毛布からは決して自分のものではない土と枯れ葉と花と、つんとしたハーブのにおいがすることに気が付いた。手触りも自分の滑らかなサテンのそれではなく、ざらついた、ちょっと顔がかゆくなるような粗いつくりであることにも。
早く目を覚ましすぎたのではない。最後の記憶は昼間だった。むしろ寝過ぎてしまったのだ。
まだ頭が働かないし目もじょうずに開かない。腕を思い切り伸ばして身じろぎをすることで、ベッドに眠っているのは俺ひとりだということを知る。
しまった、絶対に負担が大きかったはずのエースよりぐっすりと眠ってしまった。想像以上に昨夜の寝不足がたたっていたらしい。

エースの家は家と呼ぶにはあまりに質素な、道具小屋のような小さな廃屋だった。明かりはひとつしかない。そのせいでさほど広くないはずなのに、部屋の半分より奥はほとんど闇に包まれている。目を凝らすと薄明かりと暗闇の狭間に毛布にくるまったエースの後ろ姿があった。
いいにおいがする。料理をしているのだろう。もうできているのかもしれない。彼が火を使っているようすはない。むしろキッチンなどあっただろうか?あまりにも彼を抱くことしか頭になくて、どんな部屋なのかまるで思い出せなかった。
夢中でエースを抱いた。意識を飛ばしそうになったエースの髪をつかんで無理矢理にそれを許さず、何度も抱いた。彼は泣いた。
ようやく意識を失うことを許されたエースの濡れた頬を拭いながら、彼が目覚めたら瞼にキスをして、髪を撫でながら許しを乞おうと思っていたのに。彼は夕食をつくっている。
まさか俺の分無いんじゃないだろうなと思ったところでエースが振り向いた。俺は肘を立て、そこに頭を置いてエースの姿をひたすら眺めていたところだった。

「マルコ。起きたなら言えよ、びっくりするじゃねえか」

こちらへ寄ってきたエースは明かりのすぐ側で止まったので、表情を見ることができた。彼は笑顔をつくっていたが、まったくもってへたくそな笑顔だった。

「エース。辛えんだろう。無理するんじゃねえよい。俺にも、酷くした自覚がある」

途端にエースの顔が悔しそうに歪んだ。怒鳴り出しそうにも、泣き始めそうにも見えた。なんとなく今謝罪をしたらひっぱたかれた挙げ句泣かれるという最悪なことになりそうな気がして、俺はベッドを抜け出してエースを抱き締めた。

「服着ろよ…」

「好きだ、エース」

「服着ろって!」

結局ひっぱたかれた挙げ句に怒鳴られたが、エースの顔はこの寒いのにじんわりと汗で湿っていて、真っ赤になっているだろうことがわかる。実際は別に俺が素っ裸だろうがコートでモコモコしていようがどうでもいいのだろうけれど、何かを責めずにいられない彼が愛しい。そして本来ならば責めるべき昼間の行為を責めずにいてくれることが、彼の気持ちが変わっていないことを如実に示していた。

「マルコこの後どうするんだ?」

「おまえまさかこんな暗闇の中俺を放り出す気かよい」

エースは笑うと思ったが、ちょっと困ったように唇を歪めて俯き、再び顔を上げると顔にかかった髪を払った。

「いや、でもさ、俺の家こんなんだし」

「暗くて見えねえ」

「からかうんじゃねえよ」

「おまえこそふざけてんのか」

頬をつねってほとんど伸びないそれを左右に伸ばすとエースは歯を食いしばった。それがおかしくて、俺は笑いながらそこに触れるだけのキスをする。

「離れたくねえんだよい」

エースはすこし目を大きく開いたが、そこに浮かぶのは驚きというよりも純粋な喜びに近いもので、俺の方が照れくさくなってしまう。すこし目を逸らした隙にエースは俯いてしまっていて、先ほどのきらきらした顔を直視できなかった自分を勿体なく思う。
彼はするりと俺の体から離れて、つい先ほどまで立っていたキッチン(があると思われる場所)で俺に背を向けてぴたりと止まる。明かりはエースの背中しか照らさない。後頭部はかろうじてぼんやりと映し出されるが足元に至ってはまったくの暗闇で、俺はエースの足を想像した。ほっそりとバランスよく筋肉のついたふくらはぎ、骨が太いと思われるしっかりとした膝、ごつんと骨の飛び出した足首、しもやけっぽい足先、どう見ても男の脚なのに男の色気をほとんど感じさせない不可思議な太もも。彼にのし掛かった瞬間びくりと痙攣した内ももの感触、大きな切り傷のある左のもも裏。

「たいしたもんじゃねえけど、夕飯食うか」

振り向いたエースは明かりを別のテーブルの上へと移動させた。そこは何の変哲もないふつうのテーブルだったが、椅子が2脚あり、そのひとつに丁寧に俺のコートと荷物が置かれているのが見えた。

「そこ座ってて。鍋持ってくる」

「どこから?」

「外だよ。俺の家の中に火を使える場所なんてない」

エースはそう言って壁にかかっていたランプに火をつけた。明かりが増えたことにより室内はより鮮明になる。エースの立っている場所を見ると、そこはキッチンなどではなく、ただの木製の棚の前であった。ちょうどいい高さのところの取っ手を引くと作業台になる仕組みになっている。
エースが明かりを持って外へ出たので、俺はテーブルの上の明かりを掴んで作業台へ寄った。折り畳めるようにはなっているけれど開きっぱなしにされていることがそこへ乗っている物の多さで伺える。
棚には何が入っているのだろうか。胸の高さで照らしていたランプを顔の位置まで上げると、ガラスの奥の文字を読むことができた。おそろしく専門的な、植物と調香術と虫と建築術の本ばかりだった。小説の類や料理の類は1冊もない。俺はすこしだけ彼が持ってくる鍋の中身が心配になったが、そんな阿呆なことを考えつつも、視線は汚れた付箋でいっぱいの専門書に釘付けだった。それはなんとなく、彼が生きている証明のように思えた。

「何やってんだよマルコ、座ってろって言っただろ。物色してんじゃねえよ」

「してねえよい。見てただけだ。触ってねえ」

「屁理屈」

エースは右手ランプ、左手にタオルで取っ手をくるんだミルクパンを持っていた。俺は鍋敷きを探したが見つからなかったのでエースの顔を見た。彼は顎で壁に掛けられているガラスのカットボードを指した。それを手に取ってもう一度エースを見ると、彼はまた顎でそれをテーブルに置けとジェスチャーをした。
おとなしく椅子に座ると彼は鍋を置くと立ち止まりもせずに作業台に行き、葡萄酒をいれてくれた。感動するほど良いにおいがした。

「豆と塩豚とハーブ。味が濃いかも」

鍋に小指を突っ込んでぺろりと舐めたエースはすこし首を傾けて片目を細めた。

「濃い方が酒が進むよい」

葡萄酒に口をつければ、それは決して高価なものではないことがすぐにわかるほどの代物だったけれどまずくもなかった。宝石の価値は値段で決まるが飲食物の価値は値段では決まらない。うまいものはうまいしまずいものはまずいのだ。高かろうが、安かろうが。
エースが皿に取り分けてくれた料理を口に運ぶと、あまりの熱さにスプーンを取り落としてしまった。こいつなんでこんな沸騰したてみたいな鍋に指突っ込んで平気なんだ。
冷ますように、べえ、と舌を出した俺を見てエースは楽しそうに笑った。そしてやはり彼は平然と料理を口に運んでいた。
俺は煙草を吸いながらゆっくりと食事をしたが、エースは夢中で食事をした。ゴブレットにつがれた葡萄酒には食べ始める前に一口飲んだだけで口をつけず、グラスにつがれた水を飲んでいる。食事を終えると彼はコーヒーをつくりにまた外へ出たが、その間におかわりをしたエースに対し俺はまだのんびりと食事をしていた。
食後のコーヒーを飲み終えるまで、俺とエースの間に大した会話はなかった。

せわしなく食事を用意してくれたエースは空になったカップをそのままにして煙草に火をつけた。ふう、と最初の煙を吐き出すと、テーブルに肘をつき、頭をのせ、すこし疲れたようすを見せた後、また顔をあげて煙草を吸った。俺も煙草に火をつける。エースはそのようすを黙って見つめた。

「不自然だろう」

とエースは言った。

「何がだよい」

「あんたは俺に言いたいこととか、聞きたいこととか、たくさんあるんじゃねえのか」

エースは俺から視線を離さず、その間は煙草がじりじりと灰になっていくのも構わないようすで、真剣な表情でじっと俺を見ていた。

「焦る必要がねえ。明日もあるし、その先もあるんだろう、エース」

エースは食事を始めてから初めての微笑みを見せた。淡いランプの明かりと相まって、それはひどく大切なもののように俺の目に映った。

「大丈夫だ。明日もあるし、その先もあるから。そんな頼りない声出すんじゃねえよ」

家の外では、何匹かの猫が赤ん坊の泣き声みたいな声をあげて、喧嘩をしていた。





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