A5サイズの封筒と灰皿、角のつぶれた煙草の箱、量産された安物の灰皿、コーヒーカップではなくマグカップで用意されたアメリカン・コーヒーを少しがたがたするテーブルに並べてコートを脱いだ。コートを椅子に掛け、マフラーをその上に乗せる。とても寒い日だというのに俺の体は少々汗ばんでいたし、封筒を抱えていた手はしっとりしている。当然のようにその手に抱えられた封筒もすこしいびつな皺が寄っていた。
朝のコーヒーブレイクの時間を過ぎたカフェは空席が目立った。もうすこししたらランチタイムで労働者が泥のついたブーツでこの床を踏み、でっぷりした男たちがその尻をボックス席のソファに沈めるだろう。イタリア製の服を着た人間は来ない。彼らは昼食はオフィスで書類片手にタイプライターと電話に挟まれた空間で食べるのだ。
一口コーヒーを飲むと、食道を熱いそれが伝い、舌がひりひりする。俺はそれを緩和させるように唾を飲み込み、煙草をくわえて肩の力を抜いた。柄にもなく緊張している。
ふと外を見れば、あたたかそうな日差しが町を照らしていた。この光景に騙される。今日はとても寒い日だ。しかしとてもよく晴れている。

エースに会うのが嬉しいのか、怖いのか、俺にはよくわからなかった。人を愛したことがないとは言わないし、それほどまでに強く彼を愛しているのかと聞かれれば、俺は頷くことはできない。しかし彼に向ける感情は他の何者とも違っていた。ひとつだけ確実なのは、彼を逃がしたくはないということだった。
視界の端で赤いコートが翻り、俺は目を遣った。鮮やかなその色彩はあたたかな日溜まりの中でも黒とグレーで構成された冬の町でひどく際立って見えた。
カフェの音楽が消えた。
そして唐突に俺は理解する。彼は冬の赤なのだ。目を奪われる、奇跡的な、冬に飛ぶ蝶そのものなのだ。
自室の空っぽのガラスケースを想像する。位置取りのためにピンを刺した、中身のない標本を想像する。俺は煙草を押しつぶし、半分ほど残ったコーヒーをそのままに、腰を浮かせながら慌ただしくコートを羽織った。衝撃で足元に置いていたトランクが倒れ、その音に驚いたカウンターの女がこちらを見た。美人だった。席を立ち、店を出かけてから席に戻って置き忘れた封筒と煙草をひったくった。せわしない俺のようすをカウンターの美人はつまらなそうにくぼんだ瞼の下の瞳でじっと見つめていた。





ジンベエの湖に行くと、そこにはショッキングピンクの吸い殻が落ちていた。彼女だ、と思ったが、一体それがいつ彼女の唇に滲む唾液を吸い、彼女の華奢な指からすり落ちたのかはわからない。
俺はジンベエの家の前の井戸に腰を預け、エースの姿を探した。時間を決めていなかったから、姿が見えなくとも不思議はない。時刻は昼をすこしだけまわった、皆が昼食を取っている時間帯だった。
俺は湖の前に置かれた丸太に腰掛けた。トランクを乗せようと思ったが、不安定にぐらついたので結局足元に置いた。水気を拾うかすかな風はひどく冷たく、俺は身震いをする。

鼻歌が聞こえた。あまりうまくない。しかし紡ぎ出されるその音は、声は、俺の急いた心を落ち着け正気に戻した。
鼻歌はすぐ近くから聞こえる。

「おまえは歌がへたくそだなあ、エース」

さほど大きい声で言ったわけではないのに鼻歌が止み、控えめな笑い声が響く。子どものような笑い方だった。

「早すぎんじゃねえの、マルコ」

エースはすぐそばの木の上にいたらしく、ぴょん、と飛び降りてきた。彼の姿よりも、この男はとんでもねえところにいるなと大木を見上げていると、その隙に寄ってきた彼は俺の座る丸太の端に片膝をたてるかたちで座った。

「元気か?っていうのもおかしいな。昨日会ったばかりなのに」

エースの笑顔に影はなかった。昨日の出来事が嘘のように、俺が屋敷を案内したときに見せたような、青年らしい晴れやかな笑顔がそこに広がっていた。

「元気じゃねえよい。おまえに殴られたからな」

「はは。悪かったって」

彼のこの明るい声が、表情が、仕草が、ほんものなのかつくりものなのか判別できず、彼を見る眉間に皺が寄る。エースは肩をすくめ、唇を歪めた。

「なんだよその顔。本当だって。本当に悪いと思ってる。俺は自分の気持ちでしか行動してなかったから」

「お互いさまだ」

俺は赤髪への嫉妬だけで彼を侮辱する言葉を吐いた昨日の自分を思いだし、空を仰いだ。海とは違う、しかし同じほどに偉大な湖が空気を穏やかにさせる。

「何も言わなかったのは俺のほうなのにな」

エースの声がすこし沈んだので、俺は彼の膝に手を置いて軽く撫でた。エースは小さく笑い、撫で続ける俺の手の甲の上で人差し指と中指を歩かせる。彼の手は冷たくて、やはり彼も人間なのだと強く感じた。あんなに熱い体と舌を持っていて、しかし冬の空気にあたればその身は空気の温度に同調する。

「仲直り?」

俺は思わず吹き出した。なんだよ、と彼がすこし恥ずかしそうに俺の肩を叩く。

「いや、ずいぶんかわいいこと言うなと思ってよい」

「俺は確かに気性が穏やかな方じゃあねえけど、ちゃんと考えてみたんだ」

彼はそう言って一度言葉を切り、唾を飲み込んだ。ごくり、と鳴ったその音に彼の緊張が伝わってきて、俺はいまだ撫でていた彼の膝の上の右手を止める。その手をエースの指に伸ばすと、彼は微かに俺の指を握るように力なく絡めた。

「あんたに言われたこと、たぶん俺はしばらくは許せない。ジンベエも許せない。結局あんたらは俺自身を見ちゃあいなかったんだって、その感情が拭えねえんだ」

俺は何も言わずに、強く彼の手を握った。エースの望んだことがその言葉に強く表れていた。

「でも何も言わずに頑なになってたって、うまくいくはずはねえんだと、俺だってわかってんだ。でも俺はそれがうまくできない。ジンベエが顔には出さねえけど、そんな俺に疲弊してたのにも気付いてた。気付いてたけど、よくわからなかったんだ。でも、マルコに会って、姐さんと話して、なんだか急に吹っ切れたんだよ。ばかみたいに。初めて自分でちゃんと最初から最後まで香水をつくったことも大きかったかもしれない。俺は何もしようとはしてなかったんだって感じたんだ。あんな渡し方になっちまったけど、あれは絶対マルコにやろうって思って」

エースは俺の手を一度強く握り返し、そしてすぐに振りほどいた。自嘲気味な笑みを浮かべ、ちらとこちらに視線をやると、すぐにまた正面に向き直る。

「俺、こんなこと言おうと思ってたわけじゃねえのに。あんたの体温は俺を変にする」

エースは両手で顔を覆い、立てた両膝でその腕を支えた。手の間からのぞく彼の唇は笑みをつくろうとしたけれどすぐに失敗し、泣きそうに歪んだ。俺はそれを眺めていた。それを見ても何の感情も浮かんでは来なかった。

「好きだ。あんたが好きだ、マルコ」

頭がおかしくなりそうだった。彼の態度でそんなことはわかっていた、わかりきっていたのに、言葉とはこんなにも偉大なものなのかと。エースの瞳はすべてを語る。彼の瞳こそ彼の心なのだと思っていたが、言語の発達はただ利便性の問題だけではなかったのかと改めて思い、顔も名も知らぬ言語学者に尊敬を覚える。
そんなばかなことを考えていたら、エースは顔を覆ったまま、不安そうに「何か言えよ」と呟いた。
何も言えることがなかったので、俺は笑った。エースは両手を顔から外し、信じられない、という顔をして、唇を半開きにしたままこちらを見ていた。

「大嫌いだ」

そう言った彼の顔は真っ赤だった。わかったかい、俺は意地悪なんだよと表情だけで示せば、彼の顔から冗談っぽさが消えていく。本物の怒りを買ってしまう前にとその肩を抱き寄せ唇にキスをした。

「俺が好き。それがお前の本音か」

「ああ」

「本当だろうな?」

「はあ?なんだよもう、しつけえよ」

呆れ顔をつくってはいるが、エースの視線はやわらかで、花粉や蜜や蕾の淡く甘美な、メテオラに訪れる春の気配のような不思議な感情を沸き起こさせた。

「俺も人間なんだよい」

年甲斐もなく甘えるみたいにエースの肩に額を押しつける。そして目を閉じた。彼からは微かにベイの煙草のにおいがした。それ以外は何も感じない。あの日、彼が部屋を訪れた日のような染み着いた香水のにおいはせず、彼の手はただ人間の皮膚と血と肉のにおいがする。

「俺だって傷つくのが怖い」

俺はそう言って、体勢を変えぬまま彼の、ちょうど唇の高さが脇のあたりにあったので、そのままそこに唇を落とした。エースのコートは毛羽立っていて、すこしちくちくした。
そっと俺の肩に彼の手がまわる。その指先がすこし震えていたから、俺はエースの表情を伺うのを諦めて、そのままじっと彼の鼓動を聞いていた。




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