洗ったばかりのいちごに噛みつくと、水の味のあとに果汁の甘みが広がった。奥歯のへこみに種がくっつく。舌先でつつくとそれはすぐに取れた。
目の前でつまらなそうに頬杖をついていた姐さんは俺がテーブルに放ったいちごのヘタを指で弾き飛ばして暇をつぶしていた。

「うまい。ありがとな。女の人って果物好きなもんかと思ってたぜ」

「普通は好きなんじゃないかい。あたしが嫌いなだけで」

「でも俺がもらっちまっていいのか、こんなにたくさん。姐さんとこ大所帯なんだから持ち帰った方がよかったんじゃねえの」

「ばかだね。果物ってのは血色の良い若者が食べるからセクシーなの」

うちの男共が揃っていちごを摘む様子を想像してごらん、と言われて俺は思わず小さく微笑んだ。姐さんはふざけるみたいに目を細めて、華奢な小指をルージュの引かれた唇に添え、娼婦みたいに顎をあげてなぞって見せた。俺はりんごにかじり付いたまま眉を上げる。



今朝、どこにも寄る気になれなくてまっすぐ家に戻ってみれば、薪の山の上で煙草を吸う姐さんが待っていた。
彼女は氷の魔女ではなく、ホワイティ・ベイの姿をしていた。ストッキングを纏った脚にぴったりとなじんだ、すこしヒールの塗装が剥げているハイヒール。体のラインが出過ぎない、適度にフィットした丈の短いワンピース、ゴージャスなロングコート。無造作におろされたウエーブヘアから覗く、光を受けてきらきら輝く大ぶりのピアス、飾り気のないシンプルなゴールドのネックレス。
完全な私服で、仕事ではないことがわかったけれど、彼女が俺に何の用だかわからなくて何も言えなかった。そしてそれはそのときの俺にとって恐怖でもあった。彼女はいつでも俺のところへ来られるのだと。俺は今すぐ消えたいのに。

「ひどい顔してんじゃないよ」

いきなり林檎が飛んできて慌ててキャッチしたけれど、再度見た彼女は恐怖の幻影などではなくいつものただのいい女で、俺はそのまま家へと招き入れたのだった。




「姐さんずっと俺が食ってんの見てっけど、暇なのか」

「かわいくないね、あんた。わざわざ暇つくってきてやったんだよ」

頭に乗せたままだったサングラスをテーブルに置き、彼女は組んだ脚をぶらぶらさせた。テーブルに対し横向きに座っているから、正面に座る俺からもその様子は確認できる。
姐さんが脚をふるたび何かをぶつけるような音がするので、俺は背筋を伸ばし、体を傾け、その脚の先をのぞき込む。そして唖然とした。

「姐さん、いなくなんのか」

「はあ?何言ってんのさ。今夜ここに泊まるだけ」

「…その大荷物で?」

「そこに驚くわけね、あんたは」

彼女は笑ったけれど、俺はうまく笑うことができなかった。彼女もそれに気付いたのか、視線をこちらへ向けぬままショッキングピンクの煙草を吸う。彼女の仲間はこの香りをひどく嫌うというけれど、俺は別段嫌いではなかった。確かに少々香りが強すぎるし、いかにも加工品といったような薔薇の香りは安っぽいけれど、職業病なのか、自分の煙草のいかにもな香りを嗅いでいるよりも花の香りを嗅ぐほうが気分がいい。それならなぜこれを吸わないのかと彼女は言ったが、絶対にショッキングピンクの煙草なんてごめんだ。
不自然に空いてしまった間、静かな空間に俺の喉が小さく鳴った。それを合図にしたみたいに、姐さんが視線だけをこちらに向ける。

「仕事早いよな、マルコの奴。あんたらの連絡網ってどうなってんだ。俺、あそこからまっすぐ帰って来たんだぞ」

「あはは。あんたが思ってるほど頼りになる男じゃないよ、マルコは。今頃まだあんたにふられたことにショック受けてぼうっとしてるんじゃないかい」

俺は赤くなった。ごまかすみたいにさくらんぼをくわえて、灰皿に向かって種を飛ばした。

「いいや、仕事の面ではあんなに頼りになる男はいない。正直なところ。だから恥ずかしがるんじゃないよ。ふたりともいい男なんだから」

伸びてきた細い腕を慌てて掴む。ここで頭を撫でられたら、恥ずかしさと情けなさでいよいよ真っ赤になってしまいそうだった。彼女は一瞬驚いたように目を見開き、すこし悲しそうな表情を覗かせたけれど、すぐにしたり顔になって手を引っ込めた。

「責任取んなよ、エース。あんたが腑抜けにしちまった」

「頼むからもう黙ってくれ、姐さん!」

あっはっは、と仰け反って笑う彼女を見ていると、自然と俺の気持ちも軽くなっていくのがわかった。マルコが俺のことを軽く見ていたことへの悲しみは拭えないが、正直、なぜ明日会おうなんて言ってしまったのかと後悔する気持ちは消え失せていた。
俺が会いたいんだ、それでいいじゃあないか。
バスケットに山盛りになった果物のフレッシュな香りは薔薇の煙草にすっかり消されてしまったけれど、自分のものではない煙草の香り、それがひどく嬉しいことなのだと気付いた。俺はこの家に誰かを入れたことは今まで1度もなかったから、他人のにおいがすることなど初めてだったのだ。





「エース、あんたにとってあたしは何?」

さすがに同じベッドで眠るわけにはいかなかったので、彼女にベッドを与え俺は綿の飛び出したソファに毛布を敷いて横たわり、もう1枚の毛布にくるまった。なぜか毛布はたくさんある。眠ることが好きだからかもしれない、不必要だと思いはしても安くて触り心地のよさそうなものがあるとつい買ってしまうのだった。もともと物持ちが良いほうなので毎年のように買い足していたらひとりで使うには余るくらいの量になった。
姐さんは首まですっぽり毛布をかぶり、俺のほうを向いて横になっていた。左頬がつぶれて普段より幼く見える。明かりは彼女寄りに置いてあるのでこちらからは彼女のようすがよく伺えるが、あちらから見て俺の表情は見えているのだろうか。

「そのまんまかな。姉さんってかんじ。友人っていうのはちょっと違う」

「外科医の子は?」

「あいつこそ友人ってかんじだ」

「赤髪のシャンクス」

「仕事の世話をしてくれるひと。シャンクスのことほとんど知らねえし」

「マルコは?」

俺は言葉に詰まった。姐さんは眠たげな瞳でじっと答えを待っている。
マルコのことについて考えようとしたけれど、何も考えられなかった。ただその姿だけが脳裏に浮かぶ。何も考えられなさすぎて声すらも思い出せない。頭が働かない。眠いのかもしれない。

「わかんねえ」

正直に言うと、彼女は小さく笑った。明かりがもう少しこちら寄りだったらおそらく見逃していただろうほどに、小さく。

「愛している人を愛していると言えないとき、人は大抵そう返す」

そう言って彼女は明かりを消し、寝返りを打ち背を向けた。毛布を手繰り寄せるためしばらくもぞもぞしていたが、それきり動かなくなった。ぼんやりとした月明かりに照らされた彼女の体は確かに呼吸をしているのがわかった。
俺は仰向けになり、へその下に両手を乗せて目を閉じた。今度こそ何も考えられなかった。



目が覚めると、4時をまわっていた。すこし寝坊してしまった、と思ったが、もう早朝にジンベエのもとを訪れる習慣は失ってしまったのだと思い出し、もういちど身を沈めた。
目を閉じて、もう一度開け、ベッドを見る。そこには相変わらずこんもりとした毛布の塊があって、冬の早朝とはいっても夜中に比べれば多少薄明るく感じる空間の中で、それは確かに呼吸をしていた。
マルコに、晴れたら会おうと俺は行った。時間を決めなかったし、晴れなかったときのことは考えていなかった。暗くなる前なら、いつだっていいだろう。昼過ぎに行ってみることにしようと俺は決め、仰向けに寝ころんだまま煙草をくわえて火をつけた。思い切りむせたので、枕代わりの肘置きから落ちてしまっていた頭を定位置に戻し姿勢を保つ。今度はむせずに吸うことができた。
午前中のうちに、蝶の居場所を探しておくことにしよう。見つからないまま日が暮れて再度同じ約束を取り付けるなんてまっぴらだ。鼻から息を吐き、そう考えたところで自嘲が漏れた。腕で目を覆う。心中で、馬鹿野郎と自分を罵る。まっぴらだ、なんて強がっておきながら、それを望んでいる自分もいたからだ。
空腹を感じたが起きあがるのが億劫だし、この狭いワンフロアで音を立てたらベッドで眠る彼女を起こしてしまうかもしれない。俺は熱いコーヒーと炭水化物の甘みのあるパンの味に思いを馳せつつ、そっと瞳を閉じた。眠ってしまったら眠ってしまったで構わない。
俺は教養なんてないし頭もよくないけれど、馬鹿ではなかった。彼女にことの一切を伝えたのがマルコでなければ、おそらくはベン・ベックマンその人だろう。この町で俺がいなくなって影響を受けるとすればシャンクスくらいのものなのだ。俺の仕事なんて彼らにとってはほかの仕事のついでの小遣い稼ぎのようなものだとわかっているが、しかし同じくらい、彼らが俺の仕事を大切にしてくれているのもわかっているのだ、本当は。
愛を認めたくないとき、認められないとき、わからないと答えると、同じ空気の中で眠る彼女は言った。俺にそっとこの隠れ家を与え、調香の知識や道具を与えてくれた女。姉のようだと俺は言ったが、彼女は同時に母親でもあった。歳はそんなに離れていないというのに母というのはおかしいし、恥ずかしかったから言わなかったけれど。
糖分やカフェインの足りない頭ではやはりまとまった思考は望めなかったけれど、少なくとも睡眠をとった頭はマルコの声を思い出すことができた。彼に名前を呼んでほしかった。しかし俺が思いだしたのは彼が俺の名を呼ぶその声ではなくて、出会った当初の、ちょっぴり警戒した、しかし呆れたように息を伸ばすその声だった。







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