目を閉じると、大きな雲が見えた。人間が乗れそうなくらい厚みがあって、雨なんて降らせそうもない元気でもくもくとした雲だ。
そこには弟がいた。唯一俺を愛してくれる人がいた。
目を開けると、大きな背中が見えた。決して大柄というわけでも超人的な筋肉を備えているわけでも恰幅がいいわけでもない、ただ距離が近いがために大きく見える背中だ。
テントウムシがくっついていた。もうすぐ春なんだなあ、と俺は思った。
「かわいい」
「あらやだエースくん。照れる」
「あんたじゃない、サッチ。テントウムシ」
「連れねえなあ」
「釣れねえよ」
「なんだその噛み合ってるようで合ってない会話は」
寝ぼけ眼をこすると、焦点の合った視界に両手を腰にあててこちらを見下ろすマルコが見えた。
くん、と鼻をきかせると、魚のにおいがした。俺が居眠りする前、マルコは釣り竿を持っていたけど今は持っていない。たぶん釣れたから満足したんだろう。
「なあにダラダラしてんだよい。書類出してねえの2番と4番だけだ馬鹿共」
「げえ。エースより後は勘弁」
「なんだとコラ」
慌てて柵から降りたサッチにつられるように一気に上体を起こすと、おまえもさっさと行けとマルコに背中を蹴られた。マルコは俺とサッチには乱暴だ。
自室に入り、後ろ手に扉を閉めると俺は目を閉じて鼻から大きく息を吸った。海上では常に漂う潮のにおいに鼻は慣れきっているけれど、室内に籠もるそのにおいはいっそう強く感じられた。屋外のひなたで感じる日のにおいよりも、室内のひなたで感じる日のにおいのほうが一層強いのと同じように。
机に近寄ると、インクが香った。
俺は指先で渦を描くように机を撫でる。船員は二段ベッドがいくつも詰められただけの大部屋で眠るけれど、隊長には個室が与えられる。広くはない。しかしそこにはベッドがあり、机があり、椅子がある。
俺は椅子には座らずに、床にそのまま跪く。机の脚を握りしめ、机にキスをした。
生まれて、20年近くなる。自分の机を持ったのは初めてだった。それだけのことがこんなにも嬉しい。
毎日机に向かって上品な文学を勉強する、そんな貴族みたいなことをしたいわけじゃない。それはむしろ、俺が軽蔑する類のものだ。しかし、自分の机がある、それは俺が認められたしるしみたいなもののように思えた。
「人形相手にするよりタチ悪いよい」
「…見てんじゃねーよマルコ」
瞼を落としてじっとり見上げると、扉に寄りかかったマルコは鼻を曲げて、ふんと鳴らした。
「4番上がったぞ」
ばさ、と紙がしなる音がした。俺はあからさまに肩を落として脱力する。俺が書類を提出するまで、マルコはここに居座るつもりなんだろう。監視だ。俺はすぐ眠ってしまうから。
気楽な海賊とはいっても隊を組むほどの大所帯では秩序が必要になる。それをまとめるのが隊長の役目なのだから、その仕事はしっかりこなしたいと思うのだけど、今まで机を持ったこともない俺だから、そこはやっぱり、苦手なのだ。こういう、ペンを使う仕事っていうのは。
幸い、俺はしっかり読み書きができたしそれなりの知識があった。まともな言葉すら使えなかったのは過去の話だ。俺は島を出る前にそれらの必要性を悟ったし、学びもした。生きるための勉強をしたし、本を読んだ。
いつまでもクソガキじゃあいられない。生き物はおとなになるのだ。
「寝るなよい、エース」
マルコの声が静寂を壊した。俺はすこしびっくりする。人並みに騒ぐのは好きだけれど基本的には落ち着いた雰囲気を守るマルコが、彼にとって居心地のいいであろうこの空間をあっさり潰すとは思わなかったからだ。
そして何より、俺はまったく眠気なんて感じないくらいに集中していたところだった。おそらくしかめっ面で、ほとんど手を休めないくらいにペンを走らせていた俺を見ていたはずのマルコがどうしてそんなことを言うのかさっぱり解せなかった。
考えがそのまま顔に出ていたのだろう、マルコは戸惑うように視線を逸らした。
「ああ、なんだ。何言ってんだ俺は」
「…俺、舟も漕がずに真面目にやってただろ」
「そうだな。何でもねえよい。忘れろ」
夕日が射して、扉のガラス窓を通した光がマルコを縁取る。その光は神々しさも美しさも感じさせなかった。ただ現実だけを感じさせた。
その瞬間、頭の中にある映像が曇る。湯気を纏った鏡のむこうを見ているみたいに。
「マルコが余計なこと言うから、眠くなっちまったじゃねえか」
目をこする。
無駄だった。俺は眠気に逆らえない。
「エース、寝んじゃねえ、」
それは無理だ。
次に目覚めるときは俺たぶんたんこぶができてるんだろうな、という無駄な確信に頬が緩む。俺は学んだんだ。マルコが許してくれるのは1回だけだ。もう1回期限を破ったら容赦はない。
俺の眼球と瞼の間にはちいさな島が浮かんでいた。
そこでは唯一俺を愛してくれる人が、身長の何倍もある大きな葉の上で泣き叫んでいた。どうしたのだろうかと思えば、彼の持っているバナナが腐っていた。
俺は彼を泣きやませようと近くにあったバナナの木に登ろうとするけれど、腐った俺の手ではバナナを取るどころか幹をつかむことすらできやしない。
俺は仕方がないからルフィの名を呼んだ。彼は俺に気づくとすっかり泣きやんで笑顔を見せた。
俺は彼に愛されている。
「起きろっつってんだよいこの阿呆!」
「いってえ!」
これはたんこぶどころじゃ済まない。青あざだ。顔面に。
「まったくなんでてめえはそう急に落ちるんだ」
「え?さあ、わかんねえ」
嘘だった。本当はわかっている。呼ばれるからだ。その力には抗えない。
夢の中では俺は愛される。
「おまえ、寝起きはやけにさっぱりした顔してるが、どんな夢見てんだよい」
俺の顔を机にたたきつけた衝撃でこぼれてしまったインクを、ペンスタンドに引っかけてあったペン用の布で拭き取りながら、呆れた顔でマルコは言った。彼の短く太い爪に、触ってしまったインクが入り込む。マルコはそれに気付くが特に気にしたようすもなくおざなりに軽く布で拭った。
そんなの起きたら忘れちまうよ。そう示すように肩をすくめると、マルコも同じように肩をすくめた。
「たまには俺の夢でも見ろよい。そして飛び起きて仕事しろ」
そんな日が来たらいいなあ、と俺は思った。
夢に逃げる
11.02.04