エースの姿が見えなくなってようやく、俺はすっかり太陽が世界を照らしていることに気が付いた。1日が始まるのだ。ひとりの青年の心を失った新しい日常が。
エースの姿を見送って、ふと眩しさに目を細めると、一気に現実が蘇ってくる。ふと視線を家の方に戻せば、赤髪と医者がコーヒーをすすっていた。赤髪は開け放たれたドアのところにしゃがみこむようにして、トラファルガーは壁に寄りかかるようにして。いい香りだ。

「俺にもくれよい」

そう言えば俺の声は思いの外すっきりと通り、大きく響く。朝の空気はすべてをきれいに見せる。人間の発する声の音波でさえも。
トラファルガーは黙ってカップに口をつけたまま家の中へ戻っていく。俺のコーヒーをいれてくれるのだろうか。医者のいれるコーヒーか、と俺は思う。想像すると口の中に苦みが広がった。錠剤の味だ。

「服に染みついてるぞ、マルコ」

赤髪はそう言って立ち上がり、のろのろとこちらへ寄ってくる。俺は呆然とそれを眺め、彼が何を言ったのか理解して深緑に沈んだ自分の体を見る。たしかにそこは自然の色味が染み着いていた。俺は肩をすくめる。どうだっていい、っていうふうに。赤髪は小さく笑って俺の隣に腰をおろした。そこに座り込む俺がどんなふうになっているのか指摘したばかりだというのに、彼もまたそんなことは気にしないようだった。見かけなんてどうだっていい、自然の色は誇りだ。本当に尊敬すべきは口の端につばの白い塊をためて一日中電話に追われる立派な服を着た人間ではなく、爪の中まで土色に染めて人々の生を助ける彼らである。

俺は両手で顔を覆って唸った。赤髪はいよいよ笑いだし、俺の手に握られたちいさなガラスケースを抜き取った。触るな、と言いたかったが、しかしその価値をわかっているのはおそらく俺ではなく彼であろう。そう思ったら奪い返すこともできず、指の隙間からケースを日の光にかざす彼の無骨な手を眺めた。

「これか」

「何が」

「俺がエースにふられた理由」

そう呟いて赤髪は宝石に触れるように優しくそれを持ち直す。俺の視線に気付いた彼は、目が怖い、とまた笑った。

「なるほどな、あの問屋と会うっていうのはこういうわけだったのか。やってくれるなあ外科医」

くん、と鼻を鳴らすとコーヒーの良い香りが漂ってきたが、嫌がらせかと思うほどにあまいにおいもする。音もなく目前に立っていたトラファルガーはゆっくりとしゃがみこみ、いかにも客人用といったふうなカップを俺に差し出した。それはミルクできれいなモカ色に染まっていた。

「俺はミルクは」

「入れないだろう。知ってるさ。顔見りゃわかる。だがそれだけ煙草を吸うんなら、胃に何かためておけ」

俺は足元を見た。無造作に転がっていた選択桶には既に何本もの吸い殻が浮いている。

「うるせえ奴だよい。外科のくせに」

「なんとでも」

トラファルガーの体には血のにおいが染み着いていた。きっとこれが彼の運命なのだと俺は思った。赤髪には海の香り。それが彼の運命だ。俺にはどんなにおいが染み着いているのだろうか。エースには自然の香りも似合うけれど、思い出されるのは、彼の体から香った――
はっとして隣を見ると、赤髪がエースのくれたガラスのケースの蓋を開いてうっとりと目を細めていた。

「新作か。なるほど、あいつらしい」

「おい、その香り」

赤髪は既にケースに夢中であり、俺の質問には答えなかったが、立ち上がりかけていたトラファルガーがため息をついて再び俺の前にしゃがみこんだ。

「これがエースの仕事だ」

それだけ言って彼は選択桶の俺の吸い殻をつまみ、観察し始めた。俺はようやく意味を理解して赤髪の手からケースを取り返す。

「マルコ!いいじゃねえかけちけちするなよ」

「これは俺んだい。触るな、嗅ぐな」

赤髪は眉を上げて、しょうがないな、といったような薄い笑みを浮かべた。こんな日差しに似合わない、もっと儚い空気に似合うその笑みに、俺はほんとうに情けない男だなと自嘲した。何もわかっていなかったのは俺だけだ。

「それは間違いなく、エースが初めてつくった香水だ。おまえのために。あいつ今までケース選びも名前付けも、価格まで、全部俺任せだったんだぜ。大事にしてやれよ、それ」

俺はそのとき、蝶ではなく、この香りを標本にしたいと思った。





古い建物、ドアノッカーのあたる部分はすっかり削られてしまっていて、叩いても大した音を立ててはくれない。まどろっこしくなって、俺はどんどんどんと扉を拳で直に叩いた。
ひととおり叩いたあと、しばらくじっと黙って耳を澄ましてみる。足音が聞こえる。かつかつ、といったヒールの音だがハイヒールではない。垢抜けない靴の音だ。その音から俺は遊びを知らないインテリの中年女性を想像したのだが、扉を開けたのはばっちりと化粧を施した美しい女性だった。

「自己紹介はいらないよ。あんたの顔知ってるもの。挨拶もいらない。わたしたちの間には必要がないから」

くるりと黒いロングスカートを翻した女の足元を見ると、服に合わないタップダンス用のチップ靴を履いていた。明らかに男物だ。俺の視線に気付いたらしい女が肩越しに振り返って、ちいさく媚びるみたいに首を傾けた。

「ここでは着飾る必要がない。ジンベエは人の中身しか見ない。着飾っても意味がないだろう?」

俺は何も言わなかった。彼女が俺をジンベエのもとへ案内してくれるつもりでいるとわかったからだ。確かに俺たちの間には挨拶も自己紹介も必要なかった。

「私は足が大きいから男物の靴を履くのさ」

どうでもいい情報だけ残して女は去っていった。ごゆっくり、とも何も言わず、ただひとつの扉だけを指し示して。去り際に気だるそうに、頭を覆っていたフードを外して頭を掻くようにして適当に髪を整える後ろ姿。顎のラインでばっさり切られた黒髪から覗く首筋が美しかった。

扉は曇りガラスになっていて、そこから透ける室内は非常に明るいことが見て取れた。俺は、ふう、と頬を膨らませて息を吐くと、ドアをノックした。返事がない。まあいいかとドアを開ければ、まるで俺が来ることがわかっていたみたいに、書類をきれいに机上に整頓しデスクチェアの背もたれをぎしぎしいわせるジンベエがいた。
湖でも屋敷でもなく、彼の領域で見る彼はまるで知らない人間のように冷めた瞳をしていた。

「俺は、あんたと同じ間違いを起こしちまったみてえだよい」

ジンベエは、やっぱりか、というような顔をした。どんなに素晴らしい人間であっても結局は男なんて根底は性の奴隷なのだ。そういう考えに行き着いてしまうのは仕方がないような気もするし、しかしだからこそそれがどれだけ青年にとって侮辱的な思考であるかがよくわかる。結局俺たちはいつまでも心を開かないエースに感情で負けたのだ。むきになってしまった。大人げなく。かたくてうまく剥けないじゃがいもにいらいらして思い切り包丁を滑らせたら自分の指を切ってしまった。そんなかんじだ。

「それでどうする、マルコさん」

「明日、会う約束をしてる。あんたの湖で。悪いが席外しといちゃあくれねえかい」

「それならわしの今日の仕事は終わりじゃ。帰る。明日やる」

俺は思いきり笑ってしまった。ジンベエは満足したみたいに浮かしかけた腰を再び椅子へと深く沈める。その椅子は彼の体にとてもぴったりしているように見えた。彼のための背もたれの高さ、くぼみ、肘掛けの具合。

「それがなあ、帰れねえよいジンベエ。あんたに頼みたくて来た」

「用件はわかっとる。秘書が準備しとるがまだすこし掛かるじゃろう」

「秘書ってさっきの女かい」

「マダム・シャーリー」

「既婚には見えない」

「4回離婚しとる」

確かにあの女と生活を共にするのは相当難しそうだなと俺は思った。時間にして1、2分しか空間を共にしていなかった俺がそう思うのだから、ジンベエはやはりさすがは人の上に立つ人間である。

「ところでマルコさん。彼女が戻るのを待つ間、聞かせてくれんか」

俺はちいさく微笑んで、きょろと部屋を見回すとジンベエが立ち上がり奥の扉を指した。黙って従い扉を開ければ、そこは黒皮のソファが置かれた重厚な雰囲気の応接間になっている。あまり使われていないのか、埃っぽいというよりも、人間離れした無機質な香りがした。部屋の隅の観葉植物が不似合いだ。
ソファに身を沈めると、俺はようやくリラックスすることができた。体から力が抜けていく。昨夜からあまりに気を張りすぎたし、あまり眠っていない。ジンベエが灰皿をくれて、そのまま彼は正面に座った。
俺は観葉植物に半分瞼の落ち掛けた瞳を向けたまま話し出す。

「町の人間はみんなエースを知らねえのに、みんなエースを知っている」

赤髪がくれた、エースが手がけた香水のリストをテーブルに広げた。それはずいぶんな量だった。エースは二度と同じものは作らないから、どうしても結構な種類になってしまうのだと赤髪は言った。俺は、彼が今までにつくった香りすべてが他人の手に渡っていて、俺はもうそれを嗅ぐ術がないのだと知ると、嫉妬に狂いそうだったけれど、それだけに彼のくれた唯一彼の名でつくられた香水がひどく愛おしかった。

「なあジンベエ。あいつは俺のもんになると思うかい」

「まず、ならんな」

どうでもよさそうにジンベエは煙草の煙を上に向かって吐き出した。





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