「てめえもう一回言ってみろ!この毛全部むしり取ってやる!」

「俺の年齢考えろクソガキ!」

「お前ら外でやれ!」

見事に蹴りが命中しキッチンまで吹き飛んだマルコにのしかかり、髪を掴んで床に頭を叩きつけた。本当はもっと殴ってやりたかったが、彼が甘んじて俺の攻撃を受けたことに気付いてしまって、どうしても2発目が出なかった。
ローに背中を蹴られて庭に押し出された俺は力任せにマルコも引っ張り出す。そして勢いよくドアを閉めた。ローは相変わらずの無表情で、シャンクスはまいったな、っていうみたいに少し俯いて頭を掻いていた。とんでもない音と同時にふたりの姿が視界から消える。
冷静になってはだめだと言い聞かせ、上体を起こして口の端に滲んだ血を拭うマルコをただ睨み付ける。冷静になってはだめだ、頭に血をのぼらせたままでいなければ。そうでなければ俺の瞳には水膜が張り、手が震え、情けない声で縋ってしまいそうだった。
冬は朝の訪れが遅い。しかし今や太陽もふわりとのぼり、世界を照らしていた。柔らかい光だった。カフェオレに溶かしたクリームみたいなふんわりとした優しげな光。それは血の混ざった唾を吐く目の前の男にも、拳をふるわせて立ちすくむ俺にも、血まみれのシーツにも消毒液のにおいにも不釣り合いだった。この空間でふさふさとして露をきらりと光らせる青々と茂った芝生だけが朝の太陽に釣り合っている。

「最低だ」

そう呟いてマルコに背を向け、煙草を吸った。マルコは立ち上がる気配を見せず、ただ芝生に座り込み、ぼうっと真正面を向いていた。その目はキッチンの窓のあたりに向けられていたけれど、何も映していないように見えた。

「本当にな」

火のつく音と、煙のにおいがした。マルコも煙草を吸い、下唇を突き出すめんどうくさそうな仕草で煙を吐いた。
俺が感じていたのは既に怒りではなく絶望に近い落胆だった。実際にはそんなもの見たこともないくせに、映画か何かで見た、崖の上から蹴り落とした小石が谷間の闇に消えていくさまが脳裏に浮かぶ。小さい小石は落下地点に終着した音すら立てない。落ち切ったのか、まだ落下の最中なのか、はかりかねて俺はずっとその谷間の闇を見つめるのだ。

「結局、あんたらみてえな金持ちは俺みてえなのを人間だなんて思っちゃいねえ」

「お前が好きだ」

「どんな俺が?」

鼻で笑うと、マルコは腰を浮かせていまにも殴りかかりそうな鋭い怒気をはらんだ瞳で俺を見た。顎をあげると、マルコは思い直したみたいに動きを止めたあと、ゆっくりと立ち上がって体勢を整えた。彼のズボンはすっかり深緑に染まっている。

「俺が信じられねえか、エース」

信じられるわけがないだろうと怒鳴ってやりたかったけれど、口を開いた瞬間自分の唇が震えていることに気付き、声を出すことができなかった。
本心を言えるはずがなかった。あんたを信じたいだなんて口にできるはずがなかった。俺はひたすら目の前の男を罵倒して、自分の記憶から男への愛しさを消し去らなくてはならない。俺の指の間に深く入り込んできた皮膚の記憶、震えた細胞の記憶、唇の柔らかさと乾燥による粘膜の突起、舌のざらつき、太陽を反射しないくすんだ金髪の痛んだ、しかし優しい感触、手首を掴んだ力の強さ、耳をくすぐるマルコの内臓の体温をそのまま含んだあつい吐息、俺の名を呼ぶ声、それらすべてによって生じる自身の変化、その記憶をすべて忘れなければならない。

「あんたがいくら俺を欲しがっても、俺は絶対に『俺』だけは売らねえよ」

そっとマルコに近づけば、彼が息をのんだのがわかった。捕まってしまうだろうかとも思ったが、マルコのすこし情けなく下がった眉を見て、ぎりぎりまで距離をつめる。

「どうしても蝶がつかまらなくて、昨夜は間に合わなかったんだ」

ポケットに入れていた、昨夜マルコに渡そうと思っていたガラスケースを彼の胸に押し付ける。
マルコが気に入ったみたいだったから。彼が使うとは思わなかったけれど、あさはかにも彼がこれを俺の耳裏に塗りこむさまを想像した。耳元で俺の名前を囁きながら、熱い吐息を吹き込みながら、この香りを纏った俺を彼のサテンのシーツの上で愛してくれるさまを想像した。マルコが気に入った香りなら町にばらまいたりせずに、ただとくべつな香りとしてとっておきたかった。
キッドにあらかじめ揃えてもらったケースからひとつを選び、香りを詰めて、蝶をつかまえた。ローに針を刺してもらって、キッドの友人だというガラス職人に夜中に無理を言って蝶を埋め込んでもらい、これが初めて俺が最初から最後まで面倒を見た香水になった。
しかしこれはマルコのためじゃない。もちろん彼はきっかけをくれたけれど、これは俺がようやくまっとうに生きる、そのためのものだったのだ。
俺がまっとうに生きる、生きようと思うきっかけをくれた男。感謝の気持ちをこめて、触れるだけのキスをした。マルコは息をつめて、驚いたような顔をしたけれど、すぐに切なげに目を細めた。ひどく愛しいと思った。
そっと体を離そうとすると、気付いたマルコが手を掴んだ。まったく、彼に手首を掴まれるのはこれでいったい何度目だ?学習能力のない自分にうんざりして視線だけで天を仰ぐ。唇を曲げて舌を鳴らした。
マルコは俺のことを捕まえておいて、しかし俺を見ていなかった。俺を掴んだ左手とは逆の、右手におさまるガラス瓶を見ていた。そこに埋め込まれた蝶を。
そのようすを見て俺ははっと目の覚める思いがした。本当に馬鹿だ俺は。彼が自分に近づいてきた目的はたったひとつだったのに。

「明日もし天気がよかったら、ジンベエの湖で会おう」

マルコは勢いよく顔を上げた。間抜けな顔だ。笑っちゃう。しかし俺はもちろん空気を読んで小さく微笑むに留め、彼の手の力が緩んだ隙に思い切り腕を引き寄せた。想像以上に簡単に振り払うことができた。マルコは声を出さずに「あ」という口の形をつくり、再び腕を伸ばしかけたが結局そうすることはなかった。だらりと垂らしたその腕が、不自然に見えないように心掛けているのは指の僅かな痙攣するような固い震えですぐに見て取ることができた。やめてくれよ、そんな態度取られたら、信じちまう。我を通したいが俺を怖がらせたくはないと、その震える腕は如実に語っているのだった。

「虫かご。忘れんなよ」





太陽はのぼったけれどまだ早朝といえる時間帯、世界はひどく静かだった。風もなく、しゅんと垂れた木々や葉は、季節的に裸んぼが目立つということもありとても頼りなげに自然にそっとそよいでいる。まだ光は弱い。太陽にいっぱい朝ごはんもらえよと、気合を入れてやるみたいにぺちんと弾く。
今までのような生活は続けられないと思ったが、しかし不思議とそれを後悔することはなかった。それよりもずっと、晴れやかな気分のほうが大きかった。禁煙中の朝の空気みたいだ。もっとも俺はそんなことできていないから、聞いた話なのだけど。
家に戻る途中、ショッキングピンクの吸殻を見た。もう何度も見ているのに、今の俺にはそれは宝石のように見えた。
ひとつひとつ、宝石を拾い上げていく。拾ったそれを落とさないように胸に抱えた。マルコが俺を求めてくれる瞳、その束の間の幸せを、失ってしまった宝石を取り戻すみたいに大切に拾い上げていく。下を向いた瞬間涙がこぼれ落ちそうになったが必死に耐えた。柄じゃない、こんなことで泣くなんて俺らしくない。しっかりしろと無理やり上を向いて鼻をすすれば泣きたい衝動はすぐに太陽の光で乾いていく。素晴らしく良い天気だ。きっと明日も晴れるだろう。




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