結論から言えば、エースは来なかった。その夜を俺がどう過ごしたか、そんなものは情けなくて口にできないくらいだ。
夜の11時を過ぎたころ、もう今夜エースは来ないとわかったが、どうにも眠る気になれなくてだらだらと煙草を吸いながら古い本を読んだ。もう何度も読んだ小説だった。オスカー・ワイルド、柄じゃあないが、彼の言うことはいつだって正しい。
読書に区切りがつくとゆっくりと目を閉じ、頭の中で音楽を流した。陽気なジャズは想像を掻きたてる。水しか飲んでいないのに口内にはアルコールのしあわせな苦味を感じる、アメリカン・ドリーム、物音のしない深夜なのに楽しくて仕方がないといったふうな笑い声、誰の声だ、アル・カポネのような腹の底から出したどす黒い傲慢で満悦な喧騒。横になって枕に片耳を押し付ければ耳鳴りのような音がして、自分の内部の音が聞こえる。キスを深くしたときのエースの艶やかな声を思い出す。そして朝が来た。頭痛がする。
午前5時にコーヒーを取りに階下に下りれば、既にオヤジは起きていた。寝間着姿だった。

「なんだ、マルコ、やけに早えじゃねえか」

「寝てねえんだよい。オヤジこそやけに早いんじゃねえかい」

オヤジはだいたいみんなと同じくらいに起きたが、時折、夜中に体調が悪くなるとそのまま寝つけず、早起きのコックとの会話を楽しんだり、コーヒーや酒を飲みながら新聞を読んで時間をつぶしていたりした。もしかして今回もそうなのかと一気に自分の体温が下がるのを感じた。しかしそれが顔に出ていたのか、オヤジは豪快に笑って俺の頭を掴んだ。大きな手だ。誰よりも。

「なに辛気臭え顔してんだ。赤髪の野郎があんまり長居するもんだからこれから寝るんだ、俺ァ。起こすんじゃねえぞ」

そういえば昨夜はオヤジと赤髪の会合だったんだったと俺は思い出す。絶対にあの男に会いたくなかったから、俺は裏口から入って物音を立てないことに全神経を使い、ずっと部屋に籠っていたのだった。

「オヤジ、あの非常識に無理させられてねえかい」

「俺がそんなタマか?」

「…無理させられたのはあっちだな」

オヤジはまた豪快に笑った。彼の声を聞いていると、どんなことでも素晴らしく思える。

「オヤジ、赤髪の居所はわかるかい」

「港の宿ひとつ取ってると言ってたが、その前に医者んとこじゃあねえか」

俺は礼を言う代わりにちいさく笑って見せた。椅子を引き、立ち上がる。通り抜けざまにオヤジの肩に手を置くと、彼は拳でそれを叩いた。彼の手はあたたかくも冷たくもない。日常を感じさせる、安心感のある温度だった。



医院の前に車をつけて、窓からようすをうかがってみる。正面の門は固く閉じられ、誰かがいる気配もない。通常ならここの医者はまだ眠っている時間だ。そもそも赤髪が向かったのは外科ではなく内科ではないだろうか。それなら港の近くにある。たぶん二日酔いの薬をもらいに行っただけにちがいない、と俺は薄く笑って、自分がエースのことしか考えていないことに気が付いた。自嘲すら浮かばず溜息が出る。彼のことが頭にあったから、なんの疑いもなくトラファルガーのところへ来てしまったのだ。
エンジンを切り、頭をシートにもたげる。胃のあたりが軽くなり、空腹をおぼえた。そのまますこし目を閉じると、一晩中起きていたせいですっかり乾燥した瞳は安楽を感じたが、意識は常に外の音を拾う。諦めて目を開けて上体を起こし、煙草をくわえて車外へ出た。
俺のものとは違う煙草のにおいがした。嗅ぐだけで舌が痛くなりそうなほどつんとした刺激を携えたその香りは、しかし彼にとても似合うと俺は常々思っている。

「ベックマン」

「マルコ。低血圧のおまえが珍しい」

「うるせえよい」

立ち上る煙草の煙とその香りを追えば、そこに赤髪の相棒ベン・ベックマンはいた。塀の内側だ。姿は見えない。俺の車に気が付かないわけがないのだから、俺の到着に合わせてわざと煙草を吸い出したであろう彼はまるでたちの悪い猟師のようだと思った。姿や気配は相手に感付かせない、ただ存在をにおわせる。悪意を持って言うならいたずら好きの幽霊だなと俺は眉間の皺をやわらげた。

「赤髪は中かい?トラファルガーは起きてんのか」

「起きてるさ。くまを数倍酷くしてな。恐ろしくて中には居られんね、俺は」

「あんたの顔も似たようなもんだよい」

「おまえもな」

細長い体を、寒さのせいかすこしすぼめた格好で姿を見せたベンは、内側から門を開けてくれた。一見すると疲れなどまったくないように見えるが、彼の髪は朝帰り特有の湿っぽさがあった。おつかれさん、と眉を上げれば、彼は肩をすくめて、やめろといわんばかりに払うみたいに右手を振った。

「マルコ、中に入るときは気をつけろ。へたをするとドアを開けた瞬間運がよければメス、悪ければ得体のしれない液体の入った注射器が飛んでくる」

「お医者様はご機嫌ななめかい」

「酔ったお頭を見るとたいていの人間は機嫌が悪くなる」

おまえもだろうと言いたげに腕を組んで塀に寄りかかったベンに鼻を鳴らして入り口に手をかけると、そっちじゃない。裏口、と声がかかった。
裏口なんてどこにあるんだと振り向いたが、ベンは既に地面に座り込み膝に顔を埋めている。眠る気まんまんだ。この寒い中よくいられるなと俺は思ったが、ベイほどではないものの、それほどに寒い地域出身だというこの男にはたいした問題ではないのかもしれない。その割に夏でも暑さをたいした問題にしていなかった気がするけれど。俺はだめだ。寒くてもへばるし、暑くてもへばる。
ちょうどよく建物の裏から人の声のようなものが聞こえたのでのぞいてみると、2階から伸びる外階段のその奥に高い塀があり、その奥まで医院の建物が続いているように見えた。あの塀の裏側が裏庭か、とあたりをつけ、外側からまわりこもうとしたが、どうせまた門が閉まってんだろと思い直す。近くにあったドラム缶を引き摺って足場にし、ひょいと塀を越えた。

冬だというのにたわわに広がる緑の芝生はすべての衝撃を受け止める。音さえしない。ふわりとしたそれは、とても不思議な感覚だった。あの男は外科医というよりやることも見た目もまるで魔術師だなと息を吐く。たっぷりと朝露をふくんだ毛足の長い植物は俺のズボンの裾を濡らした。
洗濯ものを干すためのロープが張り巡らされ、そこには何もかかっていなかったけれど、庭の隅に大きな籠がありその中は血に染まったシーツやガーゼでいっぱいだった。血のにおいはしない。草のにおいと、かすかな消毒液のにおいがする。
裏口の門は思ったとおりしっかり錠がかけられていたけれど、エースが乗ってきて俺が返した自転車は門の外側にたてかけられていた。微かなエースの面影を感じただけで喉が鳴る。ずいぶんしっかりやられたもんだと一度首をぽきりと鳴らして、建物のドアに手をかける。鍵はかかっていない。

「トラファルガー。朝早くに申し訳ねえが、赤髪に用がある」

ノッカーがなかったので壁を叩いてから中をのぞくと、彼はタートルネックのセーターに細身のジーンズ、ジャケットを羽織って、大きな布ばさみでガーゼを切っていた。口にはたばこをくわえ、眼鏡をかけている。

「あの男ならシャワー室だ。頭から点滴をかぶった」

「貴重な医療品で何やってんだよいおまえらは」

「あの男に聞け。うるさくて仕方がない」

そうしてトラファルガーはあくびをひとつ。ひどく眠そうなあくびだった。裏庭の籠を見る限り、昨日は何かおおきな手術があったのかもしれない。

「悪いな。あの男は俺が連れ出してやるよい、だからすこしだけ話をさせてくれ」

「構わないさ。居間を使え。どっちにしろ俺は患者の具合がよくないからまだ眠れない。裏庭の血を見たか?」

「ああ。見たよい」

「かなり輸血した。あんたらの方でどうにかまた集めてくれると助かる」

「話を通しておく」

「布も足りない」

「わかったよい」

トラファルガーはしばらく黙りこみ、他に欲しいものがなかったか思案していたようだったが、特に思いつかなかったようで居間へ促すジェスチャーをした。それに従い歩を進める。そこには暖炉があった。俺が暖炉を目指して進む間、背後ではずっとはさみでガーゼを切る、じょりじょり、じょりじょり、という音がしていた。

一人掛けのソファを見つけた。そこには赤髪のコートと花束が置いてあった。花束?俺はすこし戸惑ったがそれに触れてみる。鮮やかな赤とシックなワインレッドでまとめられたその花束は、女性に渡すにはいささか美しさに欠ける。ここにもうすこしピンク色や赤紫をさしたならば、ふさふさとした栗色の巻き毛をなびかせる情熱的な女にひどく似合うだろうに。赤髪はセンスはひどく良いので不審に思って顔を近づけると、香りの強い花であることに気が付いた。量が多いせいか植物くささが際立つけれど、花瓶にさしておいたらロビーを華やかな香りが舞うのだろう。

ぺたぺた鳴っていた裸足の足音が消えた。足音の主が絨毯の床、つまりこの居間にたどり着いたのだろうことはわかっていたが、俺は無視して花の香りを嗅いだ。覚えがあったからだ。俺はこの花の名を知らない、香りも知らない、しかしこの香りを彷彿とさせる何かを知っている。

「エースが好きなんだよ。その花」

そっと顔をあげ睨み付けるが、赤髪は朗らかに笑っていた。長めに伸ばされたトレードマークの赤い髪を首筋にぺったりと張り付かせ、そこから滴り落ちる水滴から服を守るためにベージュのタオルを肩にかけている。ゆるく纏ったシャツやズボンは昨日見たものと同じだった。アクセサリーの類はすべて外されていた。

「エースはどこだよい。知ってんだろうが。全部話せ」

「おいおい待てよ、マルコ、何をそんなにいらいらしてる?」

「うるせえよい。エースにこんなもん渡して、機嫌取って、どうしようってんだ」

花束を赤髪に投げつけてから自分の失態を悔やんだ。はらはらと舞い散る花束をものともせず、ただひたすらに驚いた顔で俺を見る赤髪に、今の自分の行動がいかに俺らしくなかったか思い知らされた気分だった。

「嘘だろ、おまえ、嫉妬してるのか?あのおまえが?」

赤髪は既に半笑いである。それがどうしようもなくさらに俺の怒りを煽ったが、この勢いのまま疑念をすべてぶつけてやろうという気になっていた。止まらなかったのだ。エースのことを何も知らないという悔しさと情けなさ、それが原因で生まれる喉に、胃に絡み付くねばつくような嫌な考え、それらをどうにかしたかった。そしてエースに執心する俺を明らかにおもしろがっているこの男はすべてを教えはしないだろうが、わざと何かを口走るという打算。おそらく仕事は教えない、しかし居所はこの男は必ず口走る。

「エースはおまえの何だ、赤髪。あいつの客か?昨日ふられたもんだから、そんなもんで機嫌取ろうってのかい」

半笑いを浮かべていた赤髪の表情が瞬時に固まる。異常なほどのその変化に、俺も固まらずにいられなかった。ほんのすこしだけ首をひねって背後を確認しようとした赤髪の動きに、嫌な予感が本格的なものになる。赤髪の背後にあたるそこはトラファルガーの私室だった。

「エース、俺の部屋のものを壊したらただじゃ済まさないからな」

じょきり、じょきりとはさみを使う手を止めないまま言ったトラファルガーの声に、俺は素直に一発殴られてやることにした。まったく、早起きなんてするもんじゃない。

「この下衆野郎!」

エースの姿を認識したと同時にフット・スツールが飛んできて、さすがにこれをくらったらたまったもんじゃないと反射的にキャッチする。視界をふさいだフット・スツールを脇に投げ飛ばしたところで、顔面にハイキックが飛んできた。





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