そろそろ落ちるとオヤジは言った。先日の様子を見ていて、確かにそろそろだなと俺は思う。初めこそとんでもないはねっかえりだと思ったが、人に慣れていないだけだ。エースは森のみなしごだ。
何度かこちらから彼を迎えに行こうとしたけれど、ジンベエは詳しくは語らなかったが、自分のもとにもうエースは来ないと言った。ベイは居場所を知っていそうだが、タイミング悪く隣町まで出張に出ていて不在である。隣町の職人たちとの会議のためだ。
そうなると最後の望みは一度彼と鉢合わせたあの空き家なのだけれど、ようやくそこへ行ってみようと重い腰をあげかけたとき、天気は雪で、そしてその翌日は雨が降った。おかげさまで地面はかちこち。その日は諦め、先ほど外に出てみたら年じゅう日陰になるような場所以外はずいぶんと氷が溶けはじめていたので、これなら俺でも車が出せそうだと肩をなでおろす。運転はできるが、さほど得意ではないのだ。凍結した路面を走る技術を身に着けるには俺は目があまりよくなかったし、船や他国で過ごす時間が長すぎた。
世界が動き始める月曜日だ。天気は快晴。こんなに晴れるのは久しぶりだなあとあくびをしながら、庭に出たことで冷えてしまった体を擦りながらジャケットの襟を整える。コートを着てストールを巻いて、ああ手袋が欲しいなとぼんやり考える。空き家の屋根は崩れているし、ジンベエは家にはいないだろうし、寒空の下に向かうのだからその前に町で手袋を買っていくことにした。俺は冷え性なのだ。体があたたまるようにとジャックダニエルの小瓶を内ポケットに仕込んで部屋を出る。
階段でふと立ち止まる。一人部屋の続くフロアは物音ひとつしないほど静かだが、ひとつ上の、4人部屋が続くフロアはずいぶん楽しそうな喧騒に満ちている。のんきなもんだ、と顔をほころばせる。家の中がうるさいというのはいいもんだ。純粋に、エースにもそれを味わせてやりたいと思った。

「おでかけですか。いいですね」

「その棒読みやめろよい」

「うらやましいぜ、お前完全に役得じゃねえか!」

サッチはそう言って俺の肩を叩いた。右手は軍手なのに左手にはミトン型のグローブをはめたサッチの今日の仕事は少なくともデスクワークではないらしい。
ここ数日、本職からずいぶんと離れてしまった。普段だったらそれぞれの隊の業務配分はしっかり確認できていたはずだ。だからこそサッチになぜそんなちぐはぐな手をしているのかなど聞くことはできなかった。
俺が気まずさを感じていることに気付いたのか、サッチは肘で俺の二の腕を小突いた。

「オヤジが直々におまえにエースのことを頼んだのもわかる気がする」

サッチは歯で軍手を外し、コートの中に手を突っ込んで煙草を探った。見つけ出した彼はちらと俺に窺うような視線をくれたが、俺は小さく首を振った。

「放っといたら、この寒さだからな」

俺はストールに鼻まで埋めて、黙ったままサッチを見る。それだけで伝わったようでサッチはひらりと手を振った。
車に乗り込むと、ハンドルがひどく冷えていて思わず手を離す。まったく、冬に金属なんて触るもんじゃない。俺はきょろきょろ車内を見回して、フェイスタオルを1枚見つけた。未使用かどうかあやしかったが、他に何もないので仕方がない。俺はそれをぐるぐるとハンドルに巻きつけて、ようやくそれを握ることができた。シートに背を預けふうと息を吐く。真っ白だ。
エースは非常に元気な男だが、しかしその内部で彼がぼろぼろになっていることは明白だった。おそらくオヤジは彼の最後の手段なのだ。オヤジに敵わないという事実を受け入れ、八方ふさがりの自分に気付いたら、彼の心はすっかり折れてしまうだろう。普通だったらもう折れてしまっていてもおかしくはない。彼の恐ろしいほどのタフさはただひとつの目的のためだということは既にみんなが知っている。
ただひとつだけ。あの空き家を欲しがる目的だけ聞き出せれば、すべてが解決するのだ。


手袋のために町へ出たが、いざ目的を果たしてしまうと、エースに何か用意してやったらどうだろうという考えが浮かんできた。
とてもふしぎだ。別に物で釣ろうとか、そういうわけじゃあないんだけれど、俺が彼に何かをやりたいと思った。これじゃまるで、無条件に笑顔を見たいと思う、喜ばせたいと思う、息子に対する父親の気持ちか恋人に対する男の気持ちだ。おいおい勘弁してくれ、どっちもごめんだ。考えを否定するようにジャックダニエルの小瓶をくわえたが、自分ではもう何日も前からわかっている。そのどちらの気持ちも共存しているということ。
彼を守りたい、傷つけたくないと思う無償の感情に嘘はないが、しかし同時に、どこかで見返りも求めている。自室で息を思い切り吸い込めば彼から香ったあの香りがまだ残っているような気がする、何日も経っているし空気も入れ換えた、煙草を吸うしつまみだって酒だって開けた、そんな部屋にもう彼の香りなど残っているわけなどないというのに、鼻孔が記憶するその香りが離れない。そして香りを思い出せば同時に感じる彼の吐息の音、つばを飲み込んだ喉仏、あたたかな体温、髪の自然なうねり。
あんな突っ張った子どものいったい何に惚れたのか。呆れ顔をしてごまかすことで、彼に会って触れたい気持ちを霧散させる。本当は知っている、彼が子どもなんかじゃないということ。顔の造成は決して美しくはない、しかし彼が笑うと空気が変わる。

町を歩いていると、ちらほらとこそこそと噂話をするみたいなポーズをとった男たちが露店の方を指差したり、そっちに向かったりしていた。耳をすますと、あちらはずいぶんな騒ぎになっているようだ。やれやれ、面倒なときに来ちまった。放っておきたかったが俺の顔をしっている数人の住民が視線を寄越してくるのには耐えかねる。仕方がない、ここはオヤジの顔を立てておくかと騒がしい方に向かえば、聞こえてきた声はひどく聞き覚えのあるもので、俺は一度躓きかけたがあわてて体勢を整え早足でそこへ向かう。

「エース!待てって、エース!」

「うるせえ!だから会いたくねえって言ったんだ!」

「そう言うな、教えろよ、どこのどいつだ」

「あんたには関係ねえだろう!触るんじゃねえ!」


「…エース。赤髪。何の見世物だよいこれは」

エースのコートを引っ張る赤髪の手を右手で、赤髪の手を引き離そうと奮闘していたエースの手を左手で掴む。なんて情けない光景だ。俺は母親か。
ふたりの手を離し、赤髪が引っ張ったことで右腕に引っかかるだけになってしまっているエースのコートを羽織らせ、着せてやる。エースはぽかんとしてじっと俺を見ていた。

「マルコ!久しぶりじゃねえか」

「おまえが来るなんて聞いてねえぞ。いつ来たんだよい」

「そんなはずはないな。明日の午後におまえの頭とアポは取ってある」

舌打ちをしそうになるのを堪えた。自分が今仕事から離れていることを失念していた。普段だったら絶対にスケジュールを忘れるなど初歩的なミスを俺が犯すはずはない、何か気付かれてしまうかもしれない。食えない男だ。誰よりも。

「おいエース。なんでお前こんなのに追っかけられてんだよい」

なるべく自然を装いながら視線を男からエースに流す。エースはすこし不安そうに首をすぼめて、あごをひく。

「シャンクスと約束してたんだけど、会いたくなくて、そしたら見つかっちまって」

「…そうか。おい赤髪。もう帰れよい」

「おいおい、なんだよマルコ、いつにも増してつれないんじゃないか?」

「気色悪いな、俺にまで絡むんじゃねえよい。腕離せ」

赤髪につかまれた右腕を思い切り振り払うと、赤髪は片腕で降参のポーズをして視線をぐるりと天に向かって一周させた。

「今はじっくり問いただせそうもないから、後で聞かせろよエース。俺もこれから商談に行かなきゃならないからな。だけど最後にひとつだけ。いくら払っても駄目か」

エースは答えない。
ふたりの関係性がまったく見えてこないのだから、置いてけぼりをくらっている俺はおもしろくない。赤髪がなぜエースに金を払う?嫌な想像をした。エースに限ってそれはないだろうと思うのだけど、どうやら赤髪は彼の事情をずいぶん把握しているようで、俺は口の中がねばつくのを感じて唾を飲み込んだ。俺が無駄にした数日間を埋める答えをこの男は持っている。無意識に力が入っていたようだ。顎関節が痛む。

「シャンクス、あんたは、俺がいなくたってやっていけるじゃねえか」

そう言ったエースはなだらかに眉を下げ、かなしそうに笑う。俺は耐えられなかった。
赤髪を振り向きもせずにエースのコートの襟を掴んで力ずくで引き摺っていく。エースは苦しそうに呻いたが、抗議の声はなかった。睨み付ければ野次馬の視線はおもしろいくらいに逸れていったが、ここじゃあゆっくり話もできない、車はこの街路の端に停めてあり少々遠い、どうしようかと思っていると、先日エースが裏道の話をしてくれたのを思い出す。もともと地理はあるしエースの話はちゃんと聞いていたので、俺はその隠れた裏道をすぐに見つけることができた。そこにエースを投げ込めば、彼は思い切り壁にぶつかってまた小さく呻いた。
こんなにも何も考えられなくなるのはほんとうに久しぶりだ。体勢を整えようとするエースを再び壁に押し付けて顔を近づけると、唇が触れそうになる寸前で思いきり顎を掴まれた。とんだ反射神経だ、まったく。
エースは最初焦ったような顔をしていたが、顎を掴まれても俺が引かないのを見ると嫌そうに顔を背けて、指が震えるくらい力いっぱい俺の顔を押しのけようとする。まったくもってかわいくない。俺がそれでも引かないでいると、歯を食いしばっていたエースは耐えられなくなったかのように唇を歪ませ、次の瞬間には笑い出した。

「ふ、ははっ。しつけえよ、おっさん」

笑ってしまったことで力の抜けた、俺の顎を掴んでいた手を取って指を絡ませる。エースはもう抵抗しなかった。




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