あまりにも慌てて出てきたものだから、体力には自信があるけれど、この不整脈はどうしようもない。とりあえず落ち着こうと心臓に手をあててみたが、心臓がせりあがって喉のあたりでどっくんどっくん暴れているようなかんじがした。うまく息ができなかったので一度思い切り息を吐いて、吸い込んだが、乾燥した冷たい空気は食道を直に刺激し盛大に咳き込んでしまった。なんだこれ、情けない。膝に手をあててそこに顔を埋めるようにしゃがみこむ。
息が整ってくると、鼻を埋めている自分の手からは作りかけの香水のにおいがした。俺は首筋を掠ったあたたかな吐息と、右手に重なった皮膚の感触とその体温を思い出す。ただでさえこの寒いのに汗をかいていて、顔も体も赤く火照っているというのに、再び汗がじんわり滲むのがわかる。
俺はほぼ無意識に男の吐息を感じた首筋を、耳たぶを撫で、彼の手が触れた右手の甲を唇にあてる。
恋しい。泣きたくなるようなこの感情を俺は知らない、いや、知っている。体温の高い、まだ柔らかな小さく幼い掌が震える俺の手を握ったとき、青臭い草色に染まったつま先が同じような色をした俺の足をいじめたとき、ほとんどくっつくようにして一緒にハンドルを握ったとき触れ合った肩のあたたかさ、抱き合って眠った真冬の寝床。
俺を守りたいと彼は言った。彼を守りたいと俺は思った。彼は俺の唯一だった。もうひとりの俺だった。彼を見ていて俺は髪が伸びることを知ったし爪が伸びることも知った。身長は、おなじようにおなじくらい伸びていたから気が付かなかった。彼を守れなかったとき、俺は半身を失った。それでも、彼がいなくても、俺の髪は伸びるし爪も放っておけば鋭くなるのだ。
体温が、吐息が、ふいに感じる、血管で脈打つ生々しい生のにおいが恋しい。誰かに抱きしめてほしい、からだに触れてほしい、名前を呼んでほしい。
俺は声をあげて泣いた。こんなことは初めてだ。サボがいなくなってから泣いたことなど一度もない。涙を流したことは何度かある、足を骨折したときあまりの痛みに幼かった俺は耐えきれず生理的な涙をこぼしたし、とんでもない刺激を持ったハーブを調合していたときに目をやられてぼろぼろ涙を流したりした。しかし泣いたことなど一度もなかった。俺を泣かせることができるのはサボだけだった。彼だけが俺の、春先に張った氷みたいに薄く脆く頼りない部分を溶かすことができた。
マルコは俺のそんな部分を無遠慮に踏み割った。サボはいつだって光をあてて、その熱でゆっくりゆっくりあたたかく溶かしてくれたが、マルコは何度も何度も踏みつけて、踏みつけて、氷がすっかり割れ砕けてしまうまでとにかく踏み荒らす。痛くて仕方がない、どうしたらいいかわからない。それなのに、もっともっと、すっかり踏みつくしてすべて溶かしてもらいたい。
痛いくらいにマルコが恋しい。
こんな状態のときに、また、いつもみたいに白ひげに、ここに住んで俺の息子になれと言われたならば、きっと俺はあの場で今みたいに声をあげて泣いてしまったにちがいない。どうして俺はこんなにも学習しないのだろう。ジンベエのときみたいに、白ひげの愛称にたがわない立派な髭をはやしたあの大男を好きになり始めてしまっている。
やめておけ、みんな俺をろくでもないくずだと思ってる。俺みたいな素性の知れない若者は、自分を売って生活している下種だと思ってる。俺はそういうやつらを軽蔑して生きていかなければならないのだ。俺は絶対に「俺」だけは売らない。自分のために生きるのだ。
繰り返し言い聞かせていれば、ずいぶんと頭は冷静になり脈も呼吸も整ってきた。まだ泣きしゃっくりが横隔膜をひくつかせるけれど、涙はすっかり引っ込んでいる。
俺は人気のない街路で寂しげに水を流す噴水で顔を洗って乱暴に服で拭い、なんとか平常どおりに整えると、カーテンの開け放たれたアパートの部屋を覗き見る。そこから見える壁にはカレンダーが掛かっている。今日の日付を確認すると、水曜日だった。月曜日には約束がある。いつも俺の香水を買い取って、名前を付け、きれいなケースにつめこんで売りさばいてくれる男。
俺はふと右手を顔に近付け、まだ今日は風呂に入っていないから染みついて離れない未完成のその香りを嗅ぐ。マルコはこれが気に入ったようだった。世間に出すのはもったいないな、と俺はちょっぴり思ってしまった。


明かりはついているというのに、いくら呼んでもローが出てこないものだから、俺は裏庭に忍び込んだ。いちねんじゅうふさふさの芝生。よく考えたら不思議だが、ローの裏庭では何が起こっていても不思議ではないかんじがした。現実的に考えればおそらく何かの薬剤の効果なのだろうが、そんなふうに考えずとも、ローだから、ですべてのことは完成されるような気がする。王様が「だって王様だから」と言えば人の心さえ操ってしまうのと同じように。

「入れ」

ぼんやり空間を照らしていた明かりが鮮明になると同時に、たまごのいいにおいがあたたかに香る。両手に皿を持ったローが立っていた。

「俺のぶんも作ってくれたのか?」

「ああ。おまえあったかいたまご好きだろ」

「好き好き!ていうかお前、俺来てんの気付いてたなら料理するより先に入れてくれよ」

「料理してる間、やかましいから嫌だ」

ローはいまだ白衣姿で、薬のにおいと金属のにおいと血肉のにおい、何より消毒液のにおいを強く香らせたままスクランブルエッグにスプーンを入れた。テーブルの真ん中にはクロワッサン、スコーン、スライスされたバタールの詰め込まれたバケットがあったが、バターやジャムは見当たらなかった。ローはパンには目をくれず、ただベーコンの添えられたスクランブルエッグを食べていた。俺は腹が減っていたので、スプーンを使わずパンですくってたまごを食べた。

「寒いか?」

「当たり前だろ。何十分も芝生に座ってたんだぜ」

俺の文句には答えずに俺も寒い、と呟いたローは暖炉に薪を投げ入れた。手近にあったテキーラを薪にかけ、マッチで煙草に火をつけるとそのままそれも放り込んだ。

「エース。グリューワイン」

「はいはい。作るよ」

食事を終えた皿をとりあえず重ねてシンクの端に置き、ミルクパンを火にかける。ローはただテーブルに腰を当てるようにして寄りかかったまま、ただぼうっと煙草をふかしながら暖炉で燃え盛る炎を見ていた。カクテルをつくりながら時折様子を見るが、ローはほとんどその体勢でじっとしていた。煙草を1本吸い終えると吸殻を暖炉に捨て、新しいものをくわえ、火をつけると、マッチも炎ごとまた暖炉に捨てた。そしてまたひたすらぼうっとしていた。
使い終えたミルクパンにちょっとだけ水を入れてシンクに置くと、俺はグラスをふたつテーブルに置き、それを挟むようにしてローの隣を位置取った。彼のまねをするみたいにテーブルに寄りかかる。

「風呂入れよ」

と俺は言った。ローは変わらず暖炉を見つめていたが、数秒置いてから視線を俺に向けた。彼のまなざしは不思議だ。鋭く、慈悲など知らぬという冷淡さを惜しげもなく滲ませているというのに、高慢や威圧や不快を感じさせない。俺はそのまなざしが好きだ。言いよどんでいるとその眼光はあからさまに「のろま」と訴えて来るし、皮膚を裂くような視線は隠し事を許さない。だから俺はこの男にならなんだって言えてしまうのだ。

「臭い」

「俺は鼻が麻痺しているから、気にならないけどな」

ローは俺の鼻をつまんでぐりぐりといじる。鼻血が出そうだ。やめさせようともがく前にローの細く、冷たく、ひび割れた、爪の短く切りそろえられた指は離れていく。まだ半分ほど残っているグラスを置いて、テーブルから離れた。

「風呂行くのか?なあ、俺も入りてえ。寒い」

「馬鹿、行かねえよ。行ったとしても誰が入れるか。着替えてくる、それでいいだろう」

そっけなく言って彼が部屋を出てしまったので、俺もまだカクテルの残ったグラスをテーブルに置き残し、テーブルから体を離した。ちょっとうろうろして、結局暖炉の前にしゃがみこむ。暖炉の上にローのシガレットケースを見つけたので1本拝借し、マッチを擦って、不要になった火は暖炉に食べさせた。ローの煙草は、マルコの煙草よりすこし重い。

戻ってきたローは、細身のカットソーに細身のパンツといういつもの格好だったけれど、そこに血や薬品は染みついていないし白衣の代わりに厚手のカーディガンを羽織っていた。俺が床になんて座り込んでいるもんだから、ローはちょっとだけ位置取りに迷ったみたいだったけれど、すこし暖炉から離れたところに置かれた一人掛けのソファに身を沈めた。俺は黙っているし彼も黙っている。一度座りはしたがテーブルの上のカクテルの存在を思い出したローは立ち上がってこっちに寄ってくる。俺はそのタイミングを外さずに声をかけた。

「ロー。俺、シャンクスに会いたくねえ」

「…なんだって?」

「キッドに会いたい」

ローはちょっと待て、というように目線を落とし右手を顔の横にかざす仕草を見せた。喉を鳴らし、訝しげに俺を見る。俺は肩をすくめて短くなった煙草を暖炉に放った。ローは一連の俺の動作を、見逃すまいとするように凝視していたが、ホットカクテルに口をつけると肩の力を抜いた。

「ようやく自立する気になったか」

「…ガキじゃねえ」

「ふうん」

「…なんだよ」

わざとらしく唇を曲げて見せるとローは笑った。一気にグラスの中身を飲み干し、テーブルに置くと、俺のいる暖炉の傍まで寄ってくる。そして暖炉の横の壁に寄りかかり、腕を組んだ。

「他人にまかせたくないほど、いいものができたか?」

シャンクスが売れば俺の香水は売れる。だからいつも、ビジュアルも大切なんだと知ってはいても入れ物のデザインなんてどうでもよかったし名前なんてどうでもよかった。シャンクスはセンスがあんまりよくないので、よくへんてこな名前をつけたが、彼の側近である男は非常にスマートでクールな男だったので、彼がどうにかしてくれた。側近の男、ベンはよく香りの名前について俺にシャンクスの案とベンの出した妥協案を提示して、ちゃんと直したから安心しろと微笑みかけてくれたが、誰もその香りをつくったのが俺だと知ることがないわけだから、別にださい名前のままでも構わないと思っていた。
しかしこれは違うのだ、自分で選びたいし、顔も知らない人間の間に蔓延させたくなんてない。

「他人に売りたくないものができたよ」

そう笑えば、ローが興味津々に俺の体を嗅ぎまわったが、鼻が麻痺している彼はすぐに諦めた。つまらなそうな顔で拗ねるローを見ていたら、俺は今日あんなに泣いたことなどすっかり忘れてしまっていた。




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