ふと近づいた距離は偶然だったが、俺はその香りに誘われるように首筋に鼻を押し付けた。彼からにおい立つ香りはすばらしかった。それは果実の香り、それなのに甘くない。かじりつきたいのにそれを許さない、熟す前の、すべてを跳ね返す高貴さがあった。うかつに手を出せば香りとは正反対の若い苦味が舌を刺す。そのストイックさは耐えられぬほどに甘美だ。手の届かぬ自分の無力さに酔う。
エースのような、土と草と風と太陽と汗のにおいが似合う男に不似合いでありながら、ひどく彼らしいとも思えるのは、放っておけない無邪気さを見せながら、人を惹きつけながら、妙に冷淡で他者を否定する彼の生き様に寄り添うように思えるからか。
この香りはひとつの物語なのだ、と俺は思った。しかしそれでも訊ねてみようと思ったのは、明らかに人工的でありながら未完成の味を含んでいたからだ。

「何の香りだ」

と俺は言った。エースの顔は見えないが、彼が動揺しているのは手に取るように明らかだ。耳のすぐ傍で彼が唾を飲み込む音がした。それはひどくゆっくりと喉をおりていく。生理現象ではなく体や心の乱れからくるねっとりとした唾を飲み込む音。

「名前のない香り」

とエースは答えた。俺は思わず笑ってしまった。とてもロマンチックなことを言うじゃあないか。
手はエースのそれに重ねたまま顔を離すと、エースの耳と、首筋と、髪の間からのぞく頬のかけらを見ることができた。耳の先だけ真っ赤に染まり、しかし首筋は憮然とし、頬は青ざめてすらいるように見えた。

「それに名前はつくのか」

「俺にはわからない」

はっきりと言い切るとエースはそっと俺の手から抜け出した。そっとかぶせていただけだったので、彼は難なくそれをやってのけた。青年の肌を感じていた手のひらにガラスケースの硬さは少々寂しいような気もしたが、しかしその硬くひんやりとした感触は俺が愛するものだった。
体を捩って距離をとったエースが振り向く。その瞳には色がなく、俺はすこしがっかりする。そして目が覚めたようなかんじがした。馬鹿らしい。なぜさっきの一瞬で、何かが変わったような気がしていたのだろう。しっかり寄せられた青年の眉と引き結ばれた薄い唇には警戒心しかあらわれていない。俺は肩をすくめてエースの肩を掴み、そこを軸にして体を離すと窓際へ寄った。さきほど日がのぼったと思ったばかりだというのに、冬の太陽はもう夕日に近い色をしている。

「こんなところに入れたら、窒息しちまう」

「何がだよい」

「蝶だよ。ここに入れるんだろ」

「いいんだよい。どうせ殺しちまうんだから」

エースが何も返事をしなかったので視線を向けると、彼はあわてて目を伏せた。それまで俺を見ていたことは明らかだが、いったいどのような表情で俺を見ていたのか。無性に知りたいと思った。

「ひどいな」

そう言ったエースの唇には自嘲の笑みが浮かんでいる。なんとなく、彼ほどじょうずに自嘲を浮かべることができる人間がどれほどいるのだろうと考えた。それはまさにお手本とも言える形式化された自嘲だった。少なくとも俺はここまでテンプレートされた薄い笑みを見たことがない。

「ひどいか」

「生きものを殺すことは全部ひどい」

「おまえは魚を食うし、肉を食うだろうが」

「そりゃ食うさ。好物だ。肉は筋肉をつくるし魚は健康をつくる」

あっけらかんと言うエースにどう反応したもんかと思っていると、彼は片眉をあげて左の手首を回し、天井に向けるポーズをした。そして得意げにローが言ってた、と付け足した。そんなもんは誰でも知ってると思いはしたが黙っておいた。

「でも、蝶なんてさ。食えないし、皮もないし、無力だろ。殺しちまう意味があるか」

「一部の人間にとっては」

「残虐だと思うことは?」

「針を刺す瞬間は毎回祈る」

彼があまりにもしっかりと鋭く見つめてくるので、俺もしっかり彼の目を見てはっきり答える。エースは目じりの力を抜いた。そのようすを見て俺も肩の力が抜けていくのがわかる。どうやら彼のお気に召す答えだったようだとわかったからだ。
エースはふと視線を外すと、再び無遠慮に室内を観察し始めた。壁に触れたり、デスクの上に積んであるものを触らないように両手を腰にあてながら眺めたり、シーツを引っ張ってみたり、ひととおり探検を終えると窓に手をついた。彼の吐息で窓ガラスがふわりと曇る。

「あんたは俺のことを知って、どうするんだ」

「さあな。知るか。でも、ジンベエに任されちまったんだ、仕方ねえだろい。ただおまえが正直になることのメリットといえば、俺に信用されりゃあ、ジンベエは社会保障番号をくれる。最高のメリットだろうよい。そんなに嫌がることはねえはずだ」

「うるせえな。意地になってるんだよ。わかれよ」

「ふ、ははっ。それを自分で言うのかよい」

あんまり偉そうに言うものだから、俺は耐えきれずに笑ってしまった。これではまたエースの機嫌を損ねてしまうなと思ったが、そもそも相手のために自分の感情を押し殺すということが俺は得意ではないので、おかしさが引っ込むまで存分に笑わせていただくことにする。
しかしエースが何も言わないので、指を軽く唇にあてて笑いに歪むかたちを隠しながら顔を上げると、驚いたことにエースは笑っていた。必死に笑い声を漏らさないように唇を、歯をしっかりくいしばっているものだから非常にぶさいくな顔をしている。

「おい」

「ぶはっ」

声をかけるとエースの何かが決壊した。一度大きく笑い声を漏らし、ごまかすように口に手の甲をあてて咳払いをする。

「おまえまさか俺の笑ってる顔に笑ってたんじゃねえだろうな」

「ぶふっ…はは、悪い。そういうんじゃなくてよ、あんたがあんまりにも笑うからさあ。つられちまったんだよ。いいなこういうの。初めてだ」

微笑みながら眉を下げる青年に庇護欲をおぼえ、掻き抱きたい衝動に駆られる。彼の、くるくる跳ねたすこし固めの髪を掴み、肩におさえつけ、俺の肩に彼の湿った吐息がかかるさまを想像した。しかしそれはできなかった。エースは勢いよくベッドに仰向けに倒れこんだ。衝撃で彼の体がマットレスごと数回上下する。
エースは口には出さなかったが驚いたように目をまんまるくし、確かめるみたいに拳でシーツを何度か叩いた。だいたい想像がつく、こんなにばねのきいたふかふかのベッドは彼にとって初めてのものにちがいない。エースは興味をなくしたようにベッドの点検をやめて腕を大の字に広げたが、やっぱり気になるらしく一度全身でベッドを揺らしスプリングを鳴らした。

「俺のまわり、仏頂面ばっかりだろ。だから一緒に笑うのとか、そういうの、はじめてだ」

「確かにな、中でもおまえの親友は最悪だよい」

「ローか。確かにあいつの笑顔は最悪だ。嫌いじゃねえけどな」

そしてまた俺たちは笑った。
エースは自分のことを話しはしなかったが、トラファルガーのことと市場のことを楽しそうにたっぷり話してくれた。俺は外科医の世話になったことなどないのであまり彼とは親しくないが、どうやら想像以上におかしな人物だということがわかったし、また長く町をあけていたため知らなかった町のようすを聞くのもなかなか楽しかった。エースは抜け道や近道や穴場をたくさん知っていた。そんなところに道があったか?と思案する間、エースはしっかりと時間をとってくれて、彼は案外話上手なのかもしれないと思った。
俺もたくさん話をした。何かを語るのはあまり得意なほうじゃないし、エースは話上手でも聞き上手ではなかったのでものすごく話しにくかったが、反応がとても素直なので10分もすれば楽しんで話をすることができた。エースはとにかく屋敷の人間のことを聞きたがった。狭い世界で生きてきたエースには広い世界の話が喜ばれるのではないかと思って話をしていたのだが、彼がつっこんでくるのは決まって人間のことだった。そいつは音楽が好きなのか?弾けるのかな?でもそいつは船で生まれたんだろ?いつどうやって覚えたんだ?

気付けば日はすっかり落ちていて、部屋にノックの音が響く。エースが警戒するようすを見せたので、その頭を撫でて立ち上がる。

「ちょっと待ってろ」

エースの視線はドアから外れない。警戒に満ちて真剣に敵のいる場を見つめるそのようすは本当に犬猫のようでおかしくなったが、本人は真面目にちがいない。
ドアを開けると、意外にも、そこに立っていたのはオヤジだった。彼が俺の部屋を訪れるなどいつぶりだろうか?

「オヤジ、いったいどうしたんだよい」

あまりに驚いて声が掠れた。呆然と立ち尽くす俺の肩に大きく、傷だらけで、たくさんの美しい指輪をはめたあたたかな手が鎮座する。そしてオヤジは大きくため息を吐いた。

「迎えに来たんだが、見事に逃げられたみてえだな」

オヤジの視線をたどるように振り向くと、開いた窓が夜闇に染まっている。まったく風がない。開け放たれた窓枠も、そこを囲むカーテンも揺らさずに、ただそこには不気味なほど静かに夜の空気が燻っていた。




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