3階まで行ったのは初めてだったけれど、そこはまるで空気が違っていた。毛足が短い絨毯が敷き詰められた1階とはまるで違い、毛足の長いカーペットはとてもやわらかだ。踏み出すたびにやんわりとしなる床に俺はほんの少し恐怖する。草や土とは違うこの計算されたやわらかさは、この絨毯そのものの性格を表しているようだ。ずる賢く意地悪そうな、高慢なワインレッドの絨毯は、ふとした瞬間足に絡み付いて俺は飲み込まれてしまうのではないかと錯覚する。一歩前を歩く男に伝えれば鼻で笑われるだろうが、上品すぎるこのフロアは俺はまったく好きになれそうもなかった。
廊下の左右どちらを見ても燭台と扉しか目につくものがないこの一本道で風が吹いている。俺は足を止める。ドアのひとつが開け放たれていて、その部屋の中を見ることができた。タッセルでくくられた、プリーツのないすこしふるぼけたかんじのする、夕焼け色のカーテンがたっぷりと風をうけて膨らんでいる。真っ先に目についたそのカーテンの色を俺はとても好きだと思ったが、屋敷にはどうにもちぐはぐなかんじがした。他のカーテンはワインレッドに金のフリンジがついた典型的なヨーロッパスタイルを模倣したようなものなのに、どうしてこの部屋のカーテンはすこし色あせたようなオレンジ色なのだろう。

「その部屋が気になるのか」

マルコはそう言って、俺が返事をする前にドアストッパーを足で蹴り出し、ホッケーでもするみたいに部屋の中へつま先で押し込むと、そのままドアを閉めた。あまりに勢いよく扉が閉まったので、静かな空間に慣れきった俺の耳は対応しきれなくて、思わず肩がびくりと上がる。それを見てマルコは驚いたような顔をして、すこし申し訳なさそうに目を伏せた。俺は恥ずかしくなって、誰か来ないかと自分たちののぼってきた階段のほうを見遣る。何の気配もしない。それこそ風の気配さえも。

マルコの部屋はいちばん奥だった。それぞれの部屋はまるでアパートであるかのように、ドアにはノッカーがついているししっかりとした鍵穴もある。ほとんどの扉はすべて同じように敢えて挙げるような特徴もない重厚なダークブラウンで統一されていたが、いくつかの扉には飾りがぶらさげてあったりもした。それらを眺めていると、背後からドアをノックする音が聞こえたので振り返る。自室の鍵を開けたマルコが、俺のために扉を押さえて待っていた。
緊張で喉仏が上下するのを隠すみたいにちょっと首をすぼめると、マルコは肩をすくめてほんとうに小さく微笑んだ。そして廊下の奥を指す。俺は彼の示すほうを見てから、もう一度マルコを見た。

「この階は部下を持つ奴らの部屋だよい。俺を含めた隊長だとか、山を任されてるベイだとかな。もっとも半分は空き部屋だが。このとおり部屋数が多いんで、年がら年じゅう酒飲んでるあいつらは自分の部屋がすっかりわかんなくなっちまうってんで、わかりやすく飾り付けしてるのもいる。おもしれえもんだろい」

マルコはドアストッパーをはめて鍵をポケットにしまうと、飾りのついているいくつかの扉をていねいに説明してくれた。
ベティ・デイビスの写真が貼ってあるのはサッチの部屋で、なぜかといえば彼は彼女のような女性に憧れているらしい。でもまあ単なる女好きだ、とマルコは苦々しい顔をした。初めて見る、縄を輪にしたようなものにまだ青味のある藁のような質感の草をくっつけたような飾り物は、イゾウという男の部屋だと彼は言った。その男は日系だが差別などなんでもないような顔をする、高慢だが精神の非常に強い男だとマルコは笑う。これは宗教的な問題なのだそうだ。俺はよくわからなかったが、聞いてもわからないと思ったので深くは訊ねなかった。ほかにも、ヨーロッパ風のタペストリーはビスタという男の部屋で、男の故郷の土産物だとか、サーカスみたいなへんてこな布がかかっている部屋はハルタという男で、単に趣味が悪いんだとマルコは言った。
俺はそれらの話を聞いているうちにずいぶんとリラックスしていて、ときどきマルコの言い様につい笑ってしまうくらいだった。俺はあまり多くの人間と接して来なかったから、いろいろな人の話を聞くのがおもしろくてたまらなかった。

「おいおい。こりゃ珍しいもん見ちまったなあ。俺も混ぜろよ」

両手に色違いのスープカップを持ったサッチが近寄ってくると、途端にマルコは笑顔を引っ込める。それを見て俺もちょっとばつが悪くなって、すこしだけマルコと距離を取った。

「ありがとよい」

「おう。ほら、こっちはおまえの分だ。エース」

反射的に受け取ってしまったカップは、冷え切った指先には熱いくらいで俺はあわててしゃがみこみ、いったんそれを床に置いた。その様子を見たマルコとサッチは笑う。

「おいおいマルコ、おまえ何したんだよ。さっきのこいつの様子じゃあ跳ね返されるかと思ったぜ俺は。すっかりおとなしくなっちまって」

「俺はそんなことしねえよ」

唇を尖らせるとサッチは俺の頭を撫でた。俺はどうしたらいいのかわからなくてマルコを見る。するとマルコはひどく驚いたように目を見開き、困惑したようにカップを口から離して首を右に傾け、ぽきりと鳴らした。

「あー…サッチ。やめてやれ。こいつそういうの慣れてねえから」

俺はサッチの顔が見れなかったが、マルコがものすごく嫌そうな顔で舌打ちしたからまたおもしろそうな顔でもしていたんだろう。とにかく俺じゃあなくてマルコの方がスープをぶっかけかねないと思ったので、俺はするりと未だ頭に置かれていたサッチの手をかわしてマルコの部屋のドアへと向かった。ドアストッパーを上から踏みつけ、そのまま後ろに蹴り避ける。ドアは見た目よりも軽かった。
マルコの部屋に入る直前に一度ふたりの方を見る。サッチは床にしゃがみ込んだまま膝に肘をおいて頬杖をつき、笑顔ではないが優しげに目を細めてこっちを見ている。マルコはこちらに向かって歩き出すところだった。

マルコの部屋は、入ってすぐのところにシューズボックスがあった。俺の腰くらいの高さのその棚の上には開けていない手紙がざっと10通は無造作に置かれていて、濃い紫色の透き通ったきれいなペーパーウェイトがそれを押さえこんでいる。俺はその脇にスープカップを置き、奥へと進んだ。ウォークインクローゼットの扉があり、他に家具はデスクと書棚とベッドくらいしかなかったが、部屋はひどく乱雑に見えた。床に空っぽのガラスケースや網目の細かいかごがたくさん積まれていたからだ。

「悪いな、散らかってる。おまえが蝶を探してくれるってんで、ちょっといろいろ準備をしててな」

マルコがこちらに向かっているのは見ていたし、ドアの閉まる音が聞こえたので、背後から声がしても特には驚かない。振り向かなくても響く音で彼が何をしているのかがわかる。マルコはどこかに鍵を置き、スヌードを外し、上着を脱いだ。ストーブに火をつけ、また、煙草にも火をつける。

「なんであんたはそんなに蝶に執着する?」

マルコの顔を見たらきっと聞くことはできないだろうと、俺は積まれたガラスケースに触れながら言う。聞かれたくないことが人にはあるっていうことを俺はいやというほど知っている。この質問が彼にとってそうでなければいいとこっそり願いつつケースを撫で続けていると、背後からするりと手が伸びてきて、ケースを撫でる俺の手にゆっくりと重なる。
その腕は本当に、ひどくゆっくりとした動きで伸びてきたので、重なる前に俺はその手を避けることもできたはずだ。しかしその手が次にどうするか感付いていながら、俺は動くことができなかった。
見た目に反してあたたかい大きな手、そこだけではなく背中にも体温を感じる。吐息が首筋にかかったと思ったら、あっという間に耳のあたりに移動する。
今度こそ俺は、まったく動けなくなってしまった。



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