※ローがスペード設定


















部分的な死と、局地的な生について。
じっと自分の手を見つめ、ふいに能力を発動させようとすれば空気を感じ取ったらしいエースがこちらを見もせずにやめろと呟いた。エースはまっすぐ座るとすこしがたがたする古びた椅子に深く腰掛け、ブーツを履いたまま足をデスクに乗せ、太股に大判の本を広げて読んでいた。彼の足元にはおそらくぬるくなってしまっているココアのたっぷり注がれた、飲み口が厚めにつくられた空っぽでも重いマグカップが置かれている。いつこぼすだろうと思っているが、彼はかれこれ1時間それをこぼしていない。その隣に置かれたトマトのジュレが入っていたグラスは既に空である。エースはトマトのへたまで食べた。
しばらく太陽の光を浴びていない毛布はすっかりしおれて、いつか嵐が続いた日に食べた乾パンのようなにおいがした。歯列の裏側に割れた風船のようにぴったりと張り付き、唾液に溶けて歯を磨くまでずっとその味を主張し続けたあの食事の味は思い出したくないが、しかし毛布のにおいはそれを思い起こさせた。それは風邪をひいている人間が発するにおいにも似ている。

「ロー、くさい。風呂入れよ」

「入ったさ」

ケースに入った医療辞典を肩まで持ち上げ、振りかぶれば、すっぽ抜けた本のケースがエースの首の付け根を直撃した。
痛えと小さく漏らしたエースは特に赤くもなっていない患部をさすって、ずずっと鼻をすすった。彼がページをめくる音がやけに大きく響いた。
強風の日に起こるふとした瞬間の静けさはそれまでの空気を、意識をがらりと変える。ずっとデスクにかじりついていたならば、耳に慣れ始めた風音やそれによる木々、葉々の喧噪が絶えたことによりふと意識を浮上させるし、風避けに隠れて煙草を吸っていれば、灰が散らなくなったことににっこりする。外を歩いていれば、髪が、服が視界を隠すこと、帽子を押さえる必要性、それらが消え失せたことに自然と顔を上げる。一瞬のうち風が止むことには意味があるのだ。とりとめのないことでも、どんなに小さくても何かが変化すればそれは意味がある。変化こそ意義だ。レッセフェール、アプリオリ。歌おう、レッジェーロ。
例に漏れずエースも集中力が切れたようだった。デスクの上の足を組み直し、口を開かずにくぐもった咳払いをし、しまいには思い切り腕を上げて伸びをした。そして欠伸混じりの声で言う。

「何もお前が汗くさいとか言ってるわけじゃあねえよ。生臭いって言ってんだ」

俺は心当たりがあったので、帽子を外して肩をすくめて見せた。エースは嫌そうに目を細め、呆れた顔をする。彼は呆れた顔をしていると大人のように見える。

「そう言うあんたもずいぶんと灰くさい」

「何も燃やしてねえ」

「染み着いてんだよ。たぶん」

エースは一瞬ひどく傷ついたような顔をした。しかしその表情はどこか客観的に見えた。自分自身が傷つけられたというよりも、びっこをひいた猫が倒れる瞬間を見たとき、墓に縋って泣き叫ぶ女を見たとき、すっかり荒らされた畑を見て立ちすくむ年老いた農夫を見たとき、そういうものを目の当たりにしたときに人が浮かべる唇の痙攣と不釣り合いなまばたき。エースの顔にはそれが表れていた。
エースの唇はすぐにいつもの強気そうな笑みにぴったり似合う形へと変えられる。彼は薬指で眉毛を掻いた。

「ロー、お前は灰くさくない俺を知ってたか?」

「知らないな」

「俺も医者くさくないお前を知らねえや」

俺はベッドの足元にあたる方に腰掛けていたので、寝転がるようにして体を伸ばす。シーツは冷たくなっていた。同じくひんやりとする枕の下を漁ればそこに煙草が忍ばせてあることを俺は知っている。

「医者の不養生」

と無表情でエースは言った。

「外科だからな」

と俺は言った。
煙草をくわえたはいいがライターが見当たらなかったので、両手を開いて首を軽く右に振る。エースは鼻から深く息を吐いてゆっくり足をおろすと、背筋をぴんと伸ばし、そのまま立ち上がってゆっくりとこちらへ向かってくる。顎を突き出せば彼はちょっとおかしそうに笑みをつくって、加減を調整するみたいに拳をつくったり開いたりしたあと、親指に灯した火を差し出した。俺は煙を吸い込みながらうっとりと目を細め、目の前の男にかからないように顔を背けてふううと吐き出す。
サンキュー、よくできました。礼の代わりに頬を撫でるとエースは嫌そうに身をかわした。すこし伸びて首のあたりで跳ねる毛先に指を絡ませると、今度は素直に寄ってきて、ベッドではなく地面によいしょと座り込む。能力を使わないとき、彼はふつうの人間であるはずなのに、彼のまわりだけむっとした、しかし不快ではないあたたかさが存在しているように感じる。エースは煙草を吸わなかったが、代わりに葡萄酒の瓶に口を付けた。彼がそれから口を離すとき、ぼぼお、という息が瓶の先で空気となって響く音がした。

「おまえは俺のクルーなのに、俺たち何にも知らねえな」

「それでいいだろう、船長」

素っ気なく言うとエースはすこしぶすくれたみたいに唇を曲げて、俺の足に頭をもたせかける。俺はちょっとした照れくささを感じたが、エースも同じだったようで、体重を完全にあずけることはせず中途半端に力を乗せただけだった。変な体勢で力を入れているから肩が痛いだろうに、彼は俺から離れようともそれ以上くっつこうともしない。

「なあ、ロー。茶化すなよ。知ってるんだぜ、俺。いつでも離れようと思えばおまえにはそれができる」

「どうしてそう思う」

「おまえは副船長なんて柄じゃあねえからさ。性格も、力も、ぜんぶ船長向きだ」

「そうかもな」

「茶化すなって言ってんだろ」

エースが俺にどうなってほしいのか、それこそこのまま彼と共に旅してほしいのか船長として独り立ちしてほしいのか、その真意はわからなかったし、彼自身考えが、気持ちがまとまっているのかもわからない。ただひとつわかることはこの会話に意味はない。これは単なる可能性の提示だ。

「なんでこんな能力手に入れちゃったんだろうなあ」

エースが急に手を炎化したので俺はあわてて足を避ける。その拍子に支えをなくしたエースの体もこてんと傾き、エースは笑った。そして炎化を解くと、今度こそ完全に俺の足に体を預けた。すこし重いが、心地良い。

「不満か?」

「いや、まさか。そんなことはねえよ。かっこいいだろ?」

俺が無言でいると、エースは「かっこいいんだよ」と拗ねるみたいに自己完結をした。

「ただ、別に進んで望んだわけじゃねえのに、手に入っちまった」

明るい声音であるけれど、火を消した瞬間ゆらりと姿を消すケトルの蒸気のように尻すぼみになっていく儚い声で言ったエースはぐっと腕を伸ばす。その手は俺の足を撫でた。膝裏に回された腕は咎めず、太股を撫でる手を握り込むと、そのままシーツに押しつけた。エースは伺うように一度こちらに視線を向けたけれど、すぐにまた首を正面に戻してしまったのでその表情はよくわからない。

「ローは?それ。欲しかったか?」

それ、が俺の能力を指すことはわかったが、俺はどう答えたらいいのかわからなかった。俺がこれを手に入れたのはずいぶん昔のことだったし、それが基準となって今の俺の人生があるわけだから、つまり、そういうことなのだけれど。それをどう表現したらいいかがわからない。
俺は身をかがめて、繋いだエースの手にキスをした。

「手に入ったんだ。それでいいだろう」

エースも体を伸ばして、繋いだ俺の手にキスをした。

「そんなもんか」

「人生なんて、そんなもんだ」




セ・ラ・ヴィ








12.01.25








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