エースは完全に後部座席でぶすくれている。最初こそ汚い罵りの言葉を喚き散らしていたけれど、その様子を俺たちがおもしろがっているのを感じ取ると、苛立ち紛れに車のドアに思い切り肘打ちをかましたきりすっかり黙り込んでしまった。がたついた道を通るたび、ミラーごとそこに映るエースも揺れる。
運転席のサッチを見ると、彼もミラー越しにエースを見ていた。視線に気付いてこちらを見た彼は苦笑する。

「まったく、話をするなら俺が1番だ、なんつって買って出たくせに全然だめじゃねーかよマルコ。へそ曲げたがきんちょなんて手に負えねえぞ」

俺は何も返さなかった。サッチは気にせずに鼻歌を歌いだす。すぐに渡り終えてしまうくらいの、ヨーロッパ的な橋を渡れば屋敷はすぐそこだった。
空腹だったはずなのにまったく食欲を感じない、と俺は思った。胃の中で胃液がぱんぱんに膨れたようなかんじがする。シフォンケーキみたいに。


車がとまるまで車内は無言だった。サッチの鼻歌もいつのまにかやんでいる。日もすっかり高くなり、あんなに莽莽と視界を覆っていた霧はほとんど失われていた。もうすこしすれば天使のはしごが見えるかもしれない。
まず車をおりたサッチが、ドアを閉めると同時にくしゃみをした。それを聞いてコートの襟を正す。エースを見ると彼はとても寒そうに見えた。大きく開かれた首元には何も巻かれておらず、汗が溜まりそうなほどくっきりと浮き出た鎖骨と耳は赤くなっている。鎖骨に垂れる赤いネックレスは数珠を彷彿とさせる形のせいか、彼をとくべつなもののように見せた。無防備に開け放たれている男くさく、それでいて無垢にも見えるその胸元をそのネックレスが守っている。そこには誰も触れられない。
サッチは車から降りない俺たちを不審そうに、身をかがめて窓から覗き見たが、すぐにそこからいなくなった。静かな空間にサッチの立てるじゃりじゃりという足音だけが響いた。それはだんだん小さくなっていく。エースもその足音に耳をそばだてているのがわかった。映画のインサートを見逃すまいとしているみたいに、彼の立ち去る足音に意味を見出そうとしている。俺はエースの行動を待った。彼は鼻をすすった。

「蝶」

とエースは言った。顔は不機嫌そのものなのに、声には感情が一切こもっていなかった。霧の浮く湿った空気に似合う、固まったバターにナイフを入れるようなすっきりとした響きがあった。

「俺は種類に詳しくないから、あんたの探しているそれかどうかは実際に見てもらわないとわからない」

「今日は蝶のためにおまえを呼んだんじゃねえよい」

呼ぶ、というより連れてきた、と言ったほうが正しいが、俺はもとより力ずくで連れてくる予定ではなかったのだから、まあ、いいか。
エースの唇が歪んだ。今日のエースはどこか様子がおかしいということに、俺は初めて気が付いた。太陽光を反射させる強い瞳はどこかうつろだし、いまいち自分の現状を把握していないように見える。かんたんに言えばぼんやりしていた。遠くを見つめるその表情はいつもよりずいぶんおとなに見える。俺は急に理解した。エースは頭が悪いのではない。知識がないのだ。ふつうの人間ならば生きる上で自然に学ぶはずの根本的な知識が。

「ジンベエに頼まれたんだよい」

エースの喉仏がごくりと唾液を飲み込む動きを見せた。動揺していることを示すのにじゅうぶんな反応である。

「ジンベエはおまえのことを何ひとつ知らねえ。それを探ってくれってな。それがねえと立場上、あいつもこれ以上おまえに接するわけにはいかねえんだよい」

エースはわけがわからないというように眉間に皺を寄せて俺を見た。その瞳には既に生気が宿っている。ジンベエの野郎しくじったな、と俺は理解して鼻から長く息を吐いた。フォローするべきだろうか。その必要は特にない気がした。頭ではそれをわかっているのに、放っておけない弱さがこの男にはある。

「どういう意味だよ」

「そのままの意味だよい。おまえのことをかわいいって思っちまうジンベエの身にもなれ。あいつはおまえの力になりたいのに、おまえのことがわからない、それだけで何もできない。責任感と人情に厚い男だ。自分の無力さを嘆いてる」

「悪いがさっぱり意味がわからねえ。力になりたいと思ってくれてんならなんでIDくれねえんだ。くれればいいのに」

「はあ。おまえはもっと社会ってもんを学べよい」

本当はわかっているんだろう、とは返さずに、無知を演じることで自分を守るエースの殻をこの場は守ってやることにする。隠しきれない歓喜の水膜の深さがはかりきれないうちは、そこに触れるべきではない。俺はため息を吐いた。不器用なエースにでも、なかなかに甘い俺自身にでもなく、正直すぎてうまく立ち回れないジンベエに。彼はまるで養子を迎えた新米の父親のようだ。どう接していいかわからず、結局傷つけている。いいやつなんだけどなあ、堅いんだよなあ、という意味の溜息。
後ろに身を乗り出してポケットから出した煙草の箱を差し向けると、エースは無言でちいさく頭をさげてそれを受け取った。彼が火をつけたのを確認して俺も吸う。エースは吸った瞬間しゃっくりをして、煙を肺までおとさずに吐き出してしまった。俺が何も言わずにいると、エースもそれをなかったことにした。しかしまた同じようにしゃっくりをして煙を吐き出した。

「降りろ。中に行くよい。ここは冷える」

冷たくなった指先を擦り合わせながら車を降りると、つんとした、しかしすっきりとした空気に気分がよくなる。車内はガソリンくさい。空腹感も戻ってきた。
エースがおりてこないので俺は仕方なく外側からドアを開けてやった。すると彼は素直に足を外におろした。彼が車から出る瞬間、近づいた体の距離にあまいにおいが香った。
香りは違ったが、以前空き家で彼との肉体距離を詰めたときも彼からはすばらしい香りがしたのを思い出す。あのときはさして気にもとめなかったが、今日はなんだか俺の心を乱した。香水など纏うような男には見えない。しかし好感の持てるユニセックスな香りは明らかに人工的に調合されたものだ。乱れた心に、煙草の苦味が舌先をダイレクトに刺激する。
エースは車をおりるとさりげなく、しかし確実に、意図を持って体の距離を離した。そして俺もまた確かな意図を持って、その距離を保った。

屋敷の扉を開けると嗅ぎなれた強いローズの香りがした。その香りは鼻に残ったエースの香りを吹き飛ばす。
サッチはロビーに置かれた花瓶の下にしゃがみこんで、ベイは階段の手すりに寄りかかって俺たちを待っていた。サッチはコートを脱いで、いつものスタンドカラーの白シャツのボタンをふたつ外し、折り返してリラックスしたスタイルになっている。ベイはストライプのワンピースというプライベート・スタイルに、室内用のガウンを羽織っていた。

「氷の姉さん」

とエースは呼んだ。ベイは珍しく眉を下げた。

「悪いね、エース。こっち側にいるあたしは嫌いかい?」

「はは。んなことねえよ。いつもの数倍色っぽい」

両手をポケットにつっこんで軽口を叩くエースはただの好青年だった。毎日のようにオヤジに飛び掛かる猛獣と同じ人物だとはとうてい思えないくらいに。

「サッチ」

顎をしゃくって合図をすると、サッチは仕方がないなあと気だるそうに両膝に手をついて立ち上がる。それを見たベイもまた壁から背を浮かせた。それを見たエースがちょっぴり残念そうな顔をする。まるで母子だな、と俺は思った。

「あたしの名前。ホワイティ・ベイ」

そう言い残してベイは階段をのぼり、姿を消した。彼女の姿が見えなくなってしまうと、エースは視線をサッチに移した。

「俺はおまえの家政婦じゃねえっての。客人がいるから特別な。コーヒー?」

「いや、腹が減ったよい。スープを」

「オニオン?」

「卵入りでな」

サッチは去り際にエースの頭に手を置く。抵抗するかと思ったが、エースはあっけにとられたように振り向かず厨房に向かうサッチの姿を眺めていた。エースの腕はどうしたらいいのかわからないみたいにすこし体から浮いたかっこうで固まってしまっている。
俺はそれに気づかないふりをして拳で軽く彼の肩を叩き、階段の上を示した。

「3階だ。行くぞ」

「何があるんだよ」

「俺の部屋だよい」

エースは警戒するみたいに顎をひいた。その仕草に気分がざわつく。しかし俺はやっぱりそんなものには気付かなかったふりをして、一足先に階段をのぼった。エースに逃げる意思がないことはわかっていたから。






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