領主の館には特に警備がいるわけではないので、俺はふつうに門から入っていって毎晩のように奇襲をかけた。屋敷は広いが彼の居場所を特定するのはさほど難しくはなかった。白ひげは夜8時を過ぎるとたいてい自室に下がっているからだ。
だから俺は毎晩白ひげがひとりになる8時以降に突っ込んで行って、屋敷の外に吹っ飛ばされればそのまま家に戻って眠り、仕事をし、夜にはまた屋敷を訪れた。時折敷地内で気を失ってしまうことがあり、そういうときは目が覚めた早朝にもういちど彼に挑んだりした。数をこなせばいつかすこしは報いることができるはずだと、そう信じるしかなかった。俺にはほかに方法がなかった。
俺は白ひげ以外には特に構わないけれど屋敷の人間は俺に構いたがった。そのため長居はできなかったし何より仕事をしなくてはならない。そんな生活が続くせいで今まで毎日見ていたはずのジンベエの顔を見たのはずいぶん久しぶりだったように思う。

「眉毛の端。膿んどるぞ」

「眉毛がなくなったら困るからローのところに行くよ」

ジンベエは彼のもとを訪れるのが久しぶりになってしまったことに対して特に何も言わなかった。しかしどこかよそよそしい空気がある。目を合わせない。しっかりと朝食を摂るのが久しいせいでかじったパンはすこし固くて、唾液を含んだそれは胃を重くした。
不思議な朝だった。冬の、鼻の奥を痛ませる独特の空気がない。奇妙なほど生暖かい風が吹いている。まるで春のようだと俺は思った。まだまだ熊が冬眠したばかりの初冬だというのに。

「ずっと不思議に思ってたんじゃが」

あるはずもない春のにおいを探して鼻をくんくんさせていると、おもむろにジンベエが言った。言葉の前に鳴った、唾液を飲み込むような音で、彼が緊張していることがうかがえる。聞くな、と視線で訴えるとジンベエは一度口を閉じたが、また開く。俺は首を振る。すぐにでも腰を浮かせられるように石段に手をついて体重を預けたが、その直後には彼の、俺の顔を覆いこむような大きな手で頭を押さえつけられていた。痛くはない。しかし後頭部をしっかり背後の扉に押し付けられたこの状態では横を向くことすらままならない。

「どうやって生活している。なぜIDを欲しがる。どうしていつもあまいにおいがする」

彼の瞳に浮かんだのは憐みの情だった。そして俺は、その言葉で彼が俺のことをどう考えていたのかを悟り、怒りで顔が熱を持つ。気が付けば油断していた彼の脇腹を蹴り上げ、その体躯を殴り飛ばしていた。

「ふざけんじゃねえ、このクソ野郎!」

「話を聞け、エースさん」

「うるせえ!その口で俺の名前を呼ぶんじゃねえ」

腕で口元の血をぬぐうジンベエは、座り込んだまま動く気がないようなようすだった。その俺の相手を諦めた、おざなりの静止に余計に顔が熱くなる。怒りではなかった。毎朝顔を合わせて世間話をする、その長い習慣の中で俺はジンベエという人間が好きになっていたから、きっとこれは怒りではないのだ。しかし悲しみともまた違う気がした。悲しみに近い何か。俺はそれをうまく表現する言葉を知らない。それはストア主義が快楽主義者に向かって浮かべる冷笑に似ている。
ジンベエが俺を追わないのはわかっていたから、俺は振り向かずに歩いてその場を去った。頭に血がのぼったせいで浮かんだ汗が冷静になったとたんさらりと冷えて身震いをする。鼻をすすり、右手の甲でこすったら、たしかに俺の手には花の香りが染みついていた。


ローのところには寄らず、俺は何も考えぬまま屋敷へと向かった。のろのろ歩く俺のようすは浮浪者にでも見えただろうか、肩がぶつかりそうになったショールカラーのトレンチコートにファーグローブをはめた女があわてて大きく距離を取るのを視界の端に捕らえた。その姿を追うことはしなかったが、その女の残り香を吸った。そして俺は初めて、仕方なく始めた自分の商売に誇りを持ち始めていることに気が付いた。そして笑い出しそうになるのを必死で堪える。皮肉にも、その女の香りは、俺がつくった香りだったから。
すっかり冷えてしまった指先をあたためるようにぎゅっと両手の拳を握る。さきほどまで腹に穴があいているんじゃないかと思うほど空虚な気分だったのに、急にすっきりとした気がした。俺はちゃんと仕事を持って生きているのだ。何も恥ずかしいことじゃない。
だがしかし自分の職を下品なものと勘違いされたことに対するどうしようもない憤りは、やはりどうしようもなくて、もうあそこには戻れないと奥歯を噛みしめる。パンを食べて、そのまま歯磨きをしていないから口内にはうっすらとパンの味が残っている。
ふと立ち止まり、ショーウインドウに映る自分の姿を眺めた。俺はそんなに男娼に見えるだろうか。細身じゃないし、金髪でもない。目は真っ黒、怪我だらけ。ネコとして男に好かれるタイプじゃない。タチとして男に好かれるタイプは女に好かれるタイプでもあるから勲章だ。結論として、俺はとてもそんなふうには見えない。そのことに安心し、すこし心が軽くなる。
ちゃんとした身分と、家を手に入れれば、こんな思いはしなくてすむ。そう考えると動悸がした。自分の未来に対する明るい期待とうまくいくだろうかという隠しきれない不安、そして良くも悪くも、自分が変わることへの興味。
霧がすごかった。確かに今朝はあたたかすぎた。
そんなことをぼうっと考えていたからだろうか、気配に気付けなかったのは。

「エース」

特に大きな声だったわけでもないのに、すぐ傍で起きた車の交通事故の衝突音よりその声はひどく鮮明に耳に入ってくる。俺は事故を気にするべきか声の主を探るべきかわからなくなってしまって、しかし視線は本能的に事故へ向く。この濃霧で誤ったのだろう、噴水に車が衝突していたが運転席まで被害は及ばなかったようで、あわてたようすで飛び出してきた若い男が自身の車を見て困ったように頭を掻き、両手で頭を抱えて空を仰いだ。
肩を掴まれ、乱暴に振り向かされる。そこにいたのはマルコだった。

「またあんたかよ」

「あんたはねえだろうよい。俺の名前知ってるくせに」

「俺は名乗った覚えがない」

「俺は既におまえを知ってる奴3人と接触してる」

マルコの長い指が3の数字をつくった。俺はそこにひとりずつあてはめていく。人差し指、ロー。中指、ジンベエ。薬指、氷の姉さん。俺は嫌になった。全員じゃねえか。

「その顔を見ると、これで全部ってとこかよい」

「あんた本当むかつく」

マルコは笑って、手の甲で軽くからかうように肩をぽんぽん叩いた。マルコの手は乾燥しているのかひび割れていてすこし痛々しかった。

「そろそろオヤジから俺に趣旨転向する気にゃなんねえか?」

「ならねえよ」

いまだ肩のあたりに浮かんでいたマルコの手をぱしんと払って睨み付けると、マルコは目を細めた。その瞳は「このやろう」と言っているのに口元は微笑んでいるものだから俺はそろそろ引くべきだと悟る。こういう笑い方をする男はたいていそのとき自分が有利だと確信している。俺からすれば彼が俺に声をかけた意図すらわからないのだからはなっから不利なのだ。ここは立ち去るのが賢明だ、と脳がサインを送る。

「悪いが今日は逃がしゃしねえよい」

どうして俺はこうも学ばないのだろうか。呆れすぎて笑えるね。手首を掴まれた俺はまさに先日と同じかたちでマルコに捕まったのだった。後手にまわったからには彼の気を逸らすしか拘束から逃れる方法はない。
男ががっちりと両手を掴まれ抵抗しているというのに誰一人気にする者はいない。そりゃそうだ。周りから見ればマルコの身分は明らかで俺の身分も明らかなのだ。これが逆の立場だったらどうだろう。人々が止めには入らずとも、警棒を持った警官が走ってきて、殴られた俺は保安官の乗った車に押し込められ、顔に葉巻の煙を吹きかけられるのだ。
なにも通行人に助けてもらおうなんて情けないことを考えたわけじゃない。なぜ誰も気にしないのかと卑屈になったわけでもない。ただの事実の再確認。俺は値段のつかない男。
しかしおとなしくするつもりもない。
思い切り、暴れるみたいに抵抗してみたらすこしだけ腕を引き寄せることに成功した。これはもしかしたら、力はわずかに俺の方があるかもしれない。

「くそ、……サッチ!」

マルコが叫ぶと、沿道の車が動き出した。明らかにマルコの声に反応してこちらへ向かってくる。

「てめえ卑怯だぞこのパイナップル!待ち伏せしてんじゃねえ!」

車に押し込まれた瞬間、思いきり足をばたつかせたらマルコの顎に命中した。彼はとてつもなく鋭い眼光で俺を睨んだが、なんとか一矢報いることができた俺は口角をあげて笑みを返してやった。
すると運転席から笑い声が聞こえ、殴られたのは俺ではなくて運転手の男だった。





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