湖に向かう途中、ショッキングピンクの吸殻が落ちているのを何度か見かけた。俺はそれを見て思わず微笑んでしまう。氷の魔女が来ているのだ。俺に生きるための技をくれた女。
彼女が乗ってきたであろう車が道端にとめてある。これは彼女なりの合図だった。今はひとりじゃないから姿を見せるな、と。そうでないとき、彼女は車を湖の真ん前まで乗り入れる。
俺はきょろりとあたりを見回してから、ジンベエのつくった柵を越えて森へ入る。どっちにしろまっすぐ湖に帰る予定ではなかったし、こちらのほうが近道だ。氷の姐さんに挨拶ができないのはちょっぴり残念だけれど。
背中におろしていた帽子をかぶり、頭をおさえてショルダーを担ぎなおす。そっと木々を支えにしながら、ゆっくりと傾斜をおりていく。雨こそ降っていないがどこか湿った空気が足元や手元を不安定にさせるけれど、それももうずいぶんと慣れたもので、坂を下りきってしまうとあとはさくさく歩くだけだ。茂る秋草が足を撫でる。いつしか肌を切らずに雑草の中を歩く術まで習得した。それらは枯れかけて、色あせて、見た目は美しくないかもしれないが、むしろ生を感じさせるそのようすが俺は好きだった。この不完全さこそが彼らの個性であり生きた証だ。


昔はのぼるのにも苦労した城壁は、今ではすっかり小さく見える。崩れかけたその部分は、片手を伸ばすだけでかんたんに手が届き、そこを軸に体重をかけてジャンプすれば簡単に越えることができる。おとなたちから身を守っていたつもりだったけれど、実際この壁は俺たちを外界から何一つ守っちゃくれていなかったというわけだ。今思うと笑ってしまうが、しかし幼いころこの壁は心の支えだった。
最近はあまりここを訪れていなかった。
むかしはいろいろなものに怯えて、夜中に訪れることが多かった。そしていつしか訪れることをやめた。しかし忘れたことはなかったし、ここを手に入れようという思いだけはずっと頭の隅にあった。ジンベエのところにぶちこまれてからは、気が向いたら訪れるようになっている。ここらを訪れるのはジンベエと、氷の姐さんとその部下くらいのものだからだ。俺はもうふたりと顔見知りになってしまったから、ここを訪れるのにさほど警戒する必要はない。

しかしそれが仇になった。
誰もいないという確信のもとで城壁を飛び越えたら、敷地には男がいたのだった。そして城壁を越えてしまった今、姿を隠すものなんて何もない。さらに相手が悪すぎた。

「…げ」

「おまえ昨夜の」

男は明らかに驚いていた。もちろん俺も驚いたが、白ひげの傘下である氷の姐さんの洞窟が近くにあるわけだし、ここは彼らの土地なわけだし、認識してしまえばなんら不思議はない。しかし相手はそうはいかないだろう。

「えーと…よおサッチ!元気か?」

「サッチってそりゃあのリーゼントのほうだよい」

「おおマルコ。これはどうも失礼しました」

一礼して逃げようと右足を構えると、めざとくそれに気付いたのか、それとも俺が逃げるであろうことは最初からわかっていたのかもしれない。腕を思い切り掴まれた。おもわず顔を顰める。俺の痛そうな表情がお気に召したらしい男はいやな笑みを浮かべて掴んだ腕をさらに引っ張った。

「おまえは元気そうじゃねえかよい」

俺が嫌そうな顔をすればするほどマルコの笑みは深くなる。それを見てまた俺は嫌そうな顔をしてしまう。悪循環だ。どうにか振りほどけないものかと探るようにちょっとずつ腕を自分のほうに引き寄せてみるが、それは無駄だとわかる。力には自信があったが、それはこの男も同じだったようだ。となれば、先手を打ったほうが有利である。俺は見事に先手を打たれた。どうにもならない。開き直って舌打ちをした。

「オヤジから力ずくでも奪いたい土地ってのはここのことか」

「うるせえ。あんたには関係ない」

「あるだろい。オヤジの土地を守っているのは俺も同じだ」

身じろいだ衝撃で、肩に掛けていたショルダーが地面にずり落ちる。どさりと落ちたそれに視線を落としたとき、マルコの片手が落ち着かないことに気が付いた。
長く骨張った、しかしたくましさを残したその指はふんわりと握られている。違和感をおぼえた。彼の左手はこんなにも強く俺の腕を捕まえているというのに、右手は何かを守るようだ。その手はひどく無防備に見えて、俺は口角を上げる。マルコの目じりがぴくりと動いた。その隙を見逃さず、彼の右手目がけて左足をあげる。マルコはしまった、というような顔をして右手を振り上げた。瞬間、彼の手の中から飛び出したのは蝶々だった。
マルコは名残惜しそうに飛び立つそれを見つめ、しかし間抜けなことに俺もまた飛び立つそれを見つめてしまったため、逃げるチャンスをおもいきり逃してしまった。

「くそ、せっかく見つけたってのに」

「…蝶を?」

「ああ」

忌々しげに自然と同化し消えてしまった蝶の飛び立った方向を見つめながら吐き捨てるように言ったマルコはぎろりと俺を睨んだ。とりあえず状況はさらに悪くなった。俺は感じた焦りをごまかすようにつとめて明るく振る舞う。

「また見つけりゃいいじゃねえか!」

「冬に蝶を見つけるのは大変なんだよい」

「ん?そんなことはねえよ。場所さえ知ってりゃ難しくない」

「知ってるのか」

マルコの手の力が緩んだ。俺は今度こそその隙を見逃すまいと手を引いたけれど、またすぐに掴まれてしまった。しかしそこには先ほどとは違う空気があった。マルコはただじっと俺が答えるのを待っている。
青空の見えだした空のもとで見るマルコは日焼けをしていて、長く海を渡っていたことを感じさせる。しかし瞳は青空よりも薄いブルーで、男らしい顔立ちに反してひどく美しいもののように思えた。若い女が見せびらかすようなきらきらした宝石ではなくて、ずっとチェストのいちばん上の段に大事に大事にしまわれている、代々受け継がれるアンティークのような奥深さがそこには伺える。
その瞳のせいかもしれない。彼が蝶に執着しているというならば利用なんていくらでもできただろうに、ばか正直に答えてしまったのは。

「し、知ってる」

「本当か」

「ああ。そりゃああんたは蝶に詳しいのかもしれないけど、俺は、森に詳しいから」

顎をつかまれて無理やり視線が合うように顔の位置を固定される。俺が嘘をついていないか探っているのかもしれない、力ずくで吐かせるのかもしれない。でも俺はもうどうでもよくなっていた。場所を教えるからさっさと解放してほしい。しかし顎をつかまれているから満足に喋ることができず、俺は黙っているしかない。
だんだん気まずくなってきてちょっとずつ目線をずらしていくと、ふいにマルコが笑った。柔らかに目を細める、本気で自然な微笑みだった。俺はぽかんとしてしまう。彼がそんな顔をするとは思わなかったし、そんな顔を俺に向ける意味もわからない。顎を解放されたというのに、俺の唇は半開きで何と言っていいかわからない。

「今日のところは見逃してやるよい。オヤジの土地をうろつきまわってたのも黙っておいてやる」

マルコは笑みを引っ込めて、めんどくさそうな顔で首を掻いた。腰からぶら下がっていた懐中時計を開き、時刻を確認する。そしてちょっと考えるようなそぶりを見せて、目の下を指先で掻いた。

「今から森に入るのは賢くねえな。日が落ちるまで時間もねえ。おまえどこに住んでんだ」

「聞いてどうすんだよ」

「会いにいくに決まってんだろうが。今度その場所案内しろよい」

「はあ!?ふざけんな!」

勝手な言い分に思わず声を荒げると、それもそうかと勝手に納得したマルコは煙草をくわえて火をつけた。

「オヤジから力ずくで土地を奪うんだろう」

「…くれる気がねえなら、そうする」

「いつでもかかってこいよい。オヤジはいつでも屋敷で待ってる」

マルコは俺を追い越すとき、肩に手を置いてそう言った。振り向こうとすると手の甲で耳のあたりをぺんぺん叩かれて片目をつぶった。
その場から動けずにマルコの後姿を眺めていると、彼はおもむろに振り向いた。煙草を持った右手をこめかみにあてて、にやりと笑う。

「俺は1番隊の隊長やってんだ。オヤジの右腕みてえなもんだよい。正面きってぶつかってって、なかなかオヤジを落とせなかったら俺を落としてみろ」

「白ひげを落とすよりあんた落とす方がやりずらそうなんだけど…」

素直な感想を述べてみれば、マルコは声をあげておおきく笑った。





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