目が覚めた。時間はわからない。どんよりとした曇り空が太陽の位置を把握する邪魔をした。きっちりと閉められた窓ガラスを見る。おんぼろなそれは風が吹くとがたがた鳴り出すはずなのだけど、今日は静かだ。その事実が俺の心を落ち着かせた。曇り空で風が強い日に気味の悪さを感じるのはなにも俺だけではないはずだ。
ベッドサイドに置いたままだったウイスキーグラスにはまだ中身が入っていて、俺はごくり、ごくりと二口で飲み干した。食道が熱く、胃が重くなる。俺はしばらくじっとしてその感覚をやりすごすと、鼻からふうう、と思い切り息を吐いた。寝起きのからっぽの胃にストレートの味はきついけれど、鼻がつんとして胃液が飛び跳ねる瞬間がすぎてしまえば、ムスクの香りを嗅いだときのような退廃的でセクシーな安息だけがある。
規則正しい金属音がするので何かと思えば、ブラメンコがハンマーで門を叩いているのが見えた。俺は思わず首を振り、頭を抱えた。昨夜の出来事は確実に起きたことなのだ。
「考えてくれる気がねえんなら、いつか力ずくで奪ってやる」
言葉だけ聞けば笑い飛ばしてしまいそうなせりふだが、そう叫んだ青年の姿は決して笑えるものではなかった。もし相手が彼より弱かったのなら戸惑いなく殴り殺してしまうであろうほどの殺気を纏い、瞳は怒りと興奮で燃え盛っているというのに、去り際にぎゅっと唇を閉じたその横顔は生気が感じられなかった。そのアンバランスさにぎくりとする。心身のバランスがとれていない、頭に心が追いつかない、そういった状態こそ最も危険であることを知っている。俺は彼の名を呼ぼうとしたが、それを知らないことに気が付いた。そうして何も言えぬまま、屋敷をひと睨みして去っていく青年を見送ることしかできなかった。
椅子を窓際に寄せて、窓枠に肘をつき頬杖で門が修理されていくところをぼうっと眺めていると、この寒いのにバスローブ姿のサッチが両腕を擦り合わせながらブラメンコに何やら話しかけている。ブラメンコは奥の茂みを指差した。サッチが片手を挙げて、指し示されたほうへと歩いていく。その行き先を目で追っていると、壊れた自転車がごみのように置いてあった。
サッチはまっすぐそこへ向かっていく。一度、くしゃみをするために足を止めた。それを見ているだけで寒かったので俺はシャツの襟を立てた。サッチは自転車にたどりつくと、しゃがみこんでそれを観察した。くずれたローブの合せ目からあらわになる男の体に、おいおい朝からなんてものを見せるんだと辟易して目を逸らす。視線の先にはたまたま時計があった。時刻はそろそろ昼食の香りが厨房からにおい立ってもおかしくない時間帯だ。
サッチに目を戻すと、彼は何か見つけたようだった。一か所をしきりに確認している。そして勢いよく立ち上がったと思うと、屋敷を目指して歩き出す。俺は彼の次の行動がわかってしまったので、先手を打とうと窓際を離れ、椅子をデスクに戻し、寝間着のボタンに手をかけた。
「昨日の坊主は外科医トラファルガーのところかもしれねえぞ」
広間でコーヒーを飲んでいると、予想どおり、身づくろいを整えたサッチはまっすぐに俺を目指し、隣に座った。
「なんで俺に言うんだよい」
「あれ、気になんねえ?それにあいつ絶対また来るぜ。そのたびに門やら窓やら壊されたんじゃあたまんねえよ」
「放っとけ。オヤジがなんとかする」
「なんだよ、マルコ、おまえらしくないな。いつもならオヤジの負担になることは、ってなんでも自分が解決しようとするのに」
「あいつはオヤジの負担にはなっちゃいねえよい。むしろ楽しみを奪うことになる。手出しするなって言われただろうが」
「まあ、久しぶりの娯楽だろうな。久々に帰省したら孫が生まれていました的な」
鼻を鳴らして煙草をくわえると、サッチもつられるように煙草をくわえた。そして身を寄せてくるので左手で押し返しながら、仕方なく火をわけてやる。そうすると素直に彼は離れた。傍には灰皿が無かったが、テーブルの逆側からカフェにあるような軽く普遍的な灰皿が滑り込んできた。そこではジョズが新聞を読んでいた。飛んできた灰皿は空っぽだ。ジョズは煙草を吸わない。
「ありがとよい」
「いいさ」
厨房からは、むっとした湯気のにおいが香ってくる。沸き立った湯のにおいだ。
ここでの食事はひとりひと皿、なんて上品なものじゃない。大皿に適当にどんと出されて、それぞれが自分の皿に食べたい分だけ取っていく。コックも何人前なんて把握しちゃいない。この大所帯、家で食べたい奴は食べるし外で食べたい奴は外で食べる。料理の分量はいつもてきとうだ。それなのに料理はあまらないし、足りなくもならない。
くんくんと鼻を動かすと、わずかにスパイスのにおいがした。それを嗅いで、俺は昼飯を食べてから出かけようと心に決める。
「なんでわかる」
「ん?」
「外科医のもんだってなんでわかったんだって聞いたんだよい」
頭を思い切り反らせてほぼ真上に煙を吐き出していたサッチはそのままのかっこうで俺を見ると、目を細めてもういちど煙を吐いた。そうしてから背を丸め、今度はテーブルに肘をつくかっこうになる。俺はせもたれに寄りかかってコーヒーを飲んだ。
「タグがついてたんだよ。医療用の認識タグだ」
急病人が発生したときすぐに駆けつけられるように、医院はそれぞれ車や馬車や自転車を所持している。それらには医療用とわかるように認識タグが付けられ、それらを盗むことは大罪になる。
「…あのそばかす面はまた厄介なもんを」
「おまえ今日ジンベエのところに行くって言ってたろ?通り道じゃねえか、返してこいよ」
「壊れたあれをか」
「もう乗れねえってことはねえだろ」
なぜ自分で行かないのかと問おうとして、今日彼は非番ではないのだということに気が付いた。今回の利益の最終確認の仕事に彼はあたっていたはずだ。
サッチという男はいつもこうだ。おもしろそうなことにはとことん首をつっこむけれど、過程をめんどうくさがる。のんびりとした性格のくせにすぐに結果を欲しがり、不本意な「待て」に耐えられない男。
「てめえはさっさとカウント入れよい。仕事だ仕事」
悔し紛れにせっつくようにサッチの足を何度も蹴ると、彼は耐えかねて立ち上がったがその顔は笑っている。気に食わない。
しかし医師のものだとわかった以上、それを放っておくこともできなくて、俺はブラメンコに門より先に自転車を見てもらうべく、席を立ってポーチに出た。まだ雨は降っていない。
意外とすぐに直った自転車は、押していってもよかったし乗って行ってもよかったが、一度昼に戻ったベイがまた湖に行くというのでそれで一緒に運んでもらうことにした。相変わらずひどいにおいを放つショッキングピンクに耐えかねて窓を開けるとベイは笑った。
「運転してやってんだからにおいくらい我慢しなよ」
「だから俺が運転するって言ってんだろうが」
「あんたは外科医んところで下りるんだろ。おとなしくしてな」
ショッキングピンクの煙草を指に挟んだままラベンダー色のウエーブヘアをかき上げて、バンダナを巻き、帽子を被るベイは完全に洞窟に入る体勢にはいっている。真夏でもコートなしでは入れないほどの寒さを保つ洞窟に、わざわざこの季節に入ろうというのだから彼女には感服する。しかし当の本人はそれが苦でないどころかむしろ好きみたいだった。彼女は涙さえ凍ると評される、北国の生まれだからかもしれない。高慢で寒いところを好むベイは仲間内でふざけて氷の魔女なんて呼ばれている。
トラファルガーの診療所はもう開いているはずだったが、当の医者本人は塀の上で足をぶらぶらさせながら煙草を吸っていた。医者でありながらまだ若く、ラフな服装をした彼は命を預けるのにかなりの不安を残すけれど、しかしそれでいて腕は確かなのだ。どう見ても、外見はただの悪がきなのだけれど。
「おいドクター。仕事しろよい」
「してるさ。ペンギンが」
「…まあ、シャチよりは安心できるよい」
トラファルガーは笑った。たぶん。おかしいから笑うのだろうけど、彼の笑みはいつも不気味だ。絶対に目が笑っていないし、常にかぶっている帽子で目元には陰ができていてさらに表情が読み取れない。
自転車を荷台からおろすと、口紅をなおしたりグローブをはめたりしていたベイは車のエンジンをかけた。
「ありがとよい」
「後からあんたも来るんだろう?帰りはどうする」
「いや、いい。ジンベエに昼食の予定を聞いておいてくれ」
「来ないのかい」
「湖にはな」
ベイはわけがわからない、といったように眉を顰めたけれど、とりあえず納得したのか左手を挙げて車を出した。土煙がはけると、俺は自転車を塀に寄りかからせるようにして置くと、ジェスチャーでトラファルガーに下りてくるように示す。彼は素直に着地した。
「昨日つっこんできた若造が置いてったもんだよい。思いっきり壊れていたが、なんとかこっちで直しておいた」
「それはどうも」
「これは貸したのか。それとも盗られたのか」
トラファルガーはじとりと伺うような視線を寄越し、煙草を踏み消した。うんと背伸びして塀に手を伸ばすと、そこに置き忘れたソーダ瓶を握った。そして残りの量を確かめるように覗き込むと、塀に寄りかかってそれを飲んだ。
「本当はどっちだっていいんだろう?」
俺は眉を上げ、彼は唇に弧を描いた。それは会話の終わりを告げる合図だった。
「とにかくこのとおり返したぞい。それ持っててしょっぴかれんのは俺らだからな」
彼に背を向けても、その視線が俺に向けられているのは如実に感じ取れた。しかしここで振り向いたとして、そこにトラファルガーはもういないことも予感としてわかる。
空を見上げると、不吉な雲は流れ流れて、すこしだけ青空がのぞいている。今日1日くらいはこの天気ももつかもしれない。
もう今日は、誰とも話さずに夜を迎えたい。不義だとは思うが許せよと、心の中でジンベエに謝り、俺は歩きなれた森へと向かった。