翌朝、傷だらけの俺の体を見てジンベエは、雲が割れそうなくらい大きな声をあげて笑った。いっそのこともっと笑ってくれればいい。そうしてこの憂鬱な雲を蹴散らしてくれないだろうか。雨が降りそうだった。雨が降ると仕事にならない。そんなことを考えながら敢えて何も言わずにいつものように井戸のそばでパンをかじっていると、そうふてくされるなと彼はさらに大きく笑った。

「だから言ったろう。無謀だと」

「うるせえな。俺はまだ諦めてねえよ」

「そんな顔で言われても諦めろとしか言えんよ、エースさん」

「この顔の傷は自転車で転んだだけだ」

失言だった。ジンベエはいっそう苦しそうに笑った。俺はばつが悪くなったけれど、人につけられた傷と誤解されるよりはプライドが守られるだろうと彼を無視してミルクを一気に飲み干した。
俺は政治のことをよく知らないし、社会の仕組みというやつもよくわかっていないからジンベエのことに関しては彼の人柄でしか物事を言えないのだけれど、彼は判事という役職に就いている。小さいながらにあまり治安のよくないこの町でそんな司法の中心的役割を担う男がこんなに暇そうにしていて大丈夫なのかと思うが、小さい町だからこそ裁判は面倒くさがられると彼は言った。たいてい警察内で処理されるのだそうだ。そんなことでいいのかと言ってみれば、困ったように彼は笑うのだった。
俺はその笑みの意味をよく知っている。
俺がそれらを睨み付けるのに対し、サボはそれらに困ったような笑みを向けるのだった。彼は賢く、優しく、大きな男だった。子どもながらに俺はそれを感じることができた。
しかし俺はどうでもよかったのだ。世界をよくしようなんて思わない。ただ見返せれば、自由に生きられれば、それでよかった。俺の世界は狭い。しかしだからこそ生きていられた。俺はこの、自分の汗のにおいすらはっきりと嗅ぎ取れるほどの箱の中で生きている。
空を見上げた。どんよりと暗い。俺はマレーネ・ディートリッヒの映画を思い出す。

「出かけるよ」

「こんな早朝から出かけてもどこも開いとらんぞ」

「ローは起きてる」


外科医トラファルガー・ローは唯一と言っていい俺の友人のようなものであった。彼は俺の左腕に刺青を入れた男であり、俺をジンベエのもとへ放り込んだ男である。何かあまっている薬草やハーブがあったらもらってくることにしよう。運がよければ朝食に付き合ってもらってもいい。
ローは完全に夜行性だった。だから彼の診療院は午後からしか開かない。だいたい医者なんてほとんど規則正しい生活を送ることは無理なんだから、大けが人がいない限りは好きに暮らすと彼は言った。彼は朝の9時過ぎに眠りにつき、昼ごろに起き出すのだ。医者の不養生ってまさにこのことなんじゃないの、というほどに彼は眠らない。
そういえば昨夜道を尋ねた派手な男もローの飲み友達だったようだと思い出す。名をなんと言ったか。キッドと言った。いい名前だ。アウトローのサンダンス・キッド。伝説のガンマンである彼と同じ名で生まれるとはいったいどういった気分なのだろう。




「ロー。いるか?」

診療所の裏手にまわって裏口の門をのぞく。血の茶色いしみのついたガーゼやほつれがひどいが清潔そうに見えるシーツが干された真白い裏庭はひどく病的で、俺はいつもぞっとした。俺は白という色がどうにも苦手だ。それは明るすぎたし、美しすぎたし、眩しすぎたし、何よりも非現実的すぎた。その色にはいつ俺の世界が倒壊してもおかしくはないのだとにおわせるような不快な先見性が滲んでいた。
餌をほしがる子猫みたいに、「ロー、ロー」と呼び続けてみたら、ドアが開き、網戸が開き、足首まである黒いローブで身を隠したローが腕組みをしながら裸足で芝生を踏む。朝露でてかてかと光ったそれはとても気持ちがよさそうに見えた。
ローは門の前まで来ると、何も言わずに俺を一瞥しただけで錠を外してくれた。おはよう、と言うとおはよう、と彼は言った。その声は掠れていた。

「珍しいな。寝てた?」

「ああ。昨夜すこし飲みすぎた」

「あのキッドって男、いいやつだな。友達か?」

ローはひくりと眉を吊り上げ、不審そうな視線を俺に送る。俺はローについて室内に入り、昨夜キッドに道を尋ねたこと、ローと待ち合わせをしているけれどなかなかこないことをぼやいていたことを話した。その間に彼はオレンジジュースを注ぎ、トマトとレモンを添え、どうぞというように手のひらをくるりと返した。ローは意外ともてなし上手だ。本当に意外だけれど。

「卸業者だ。薬品のな。たまに飲みに行ったり競馬に行ったりする」

「なんだ。すっげえ不審そうな目で見られたから、保安官かと思って焦っちまった」

グラスに口をつけて喉をごくごく鳴らし、あのときの焦りを思い出して苦笑いをする。ローはおもしろそうに横目でこちらに視線を寄越して笑った。

「たまにはいいだろ。おまえは判事のところへぶちこんでから無防備になった」

そう呟くローの声色に咎めや心配の感情は感じられない。事実だけを述べる淡々とした簡潔さだけが表れた。彼がそれをよく思っているのか悪く思っているのか、それすら感じ取れない平坦な声色だけれど、彼がほんとうにそんなことはどっちでもいいと思っていることを俺は知っている。
俺は何もローに心配されてジンベエの湖に住処をもらったわけではない。俺は何も知らなかったし、医者がいちばん偉いと思い込んでいたものだから、どこに行けばいいのかもわからずローのところに頼み込みに行ったのだ。社会保障番号がほしいと。
小さな町だ。出生証明がなくとも、信用さえされれば判事ならそれをくれる、とローはジンベエの住所をくれた。それ以来俺はジンベエの近くをうろうろしている。

「ところで、そばかす以外にも頬に飾りが付いてるようだがそりゃどうした」

俺は自転車で転んだことは伏せて、白ひげのところへ行ったことを話した。ローはあからさまな呆れ顔をつくって、さらには「呆れた」と呟いて、空になったグラスを水ですすぐ。

「土地を買う金がなくて、金がねえからって身分欲しがって、金もねえのに土地買いに行って、おまえは本当に何がしたいんだ」

「だってジンベエまだ俺にIDくれねえんだよ。もう、すっ飛ばしちまおうと思って」

「焦りすぎだ。もうすこし辛抱しろ」

それができたらとっくにそうしている。俺は気が長いほうではないのだ。ローもそれをわかって、いちおう言ってみただけなのだろう。彼の助言にはいつも真剣さが感じられない。定型張ったせりふの、定型張った適当さだけがある。
これが俺とローの関係性だ。基本的に相手のことはどうでもいい。しかしいたらいたで楽しい。だから表面上では友人ごっこを演じながら、心の中では無関心で、お互いそれをわかっている。しかし相手が死んだら、俺もローも泣くのだろう。

「今朝のおまえの手からはにおいがしないな」

「ん?ああ。天気が悪いから。精油に向かない」

「ハーブがいくつかあまってる」

「もらうよ」



もう眠る、と言うローのもとを去り、すぐに帰る気になれなかった俺は市場で野菜を買って、だれでも自由に使うことができる水場でそれを洗い、まだ開いていない役所の階段に座って生のまま食べた。そしてローにもらったハーブを鼻にあててにおいを確かめる。目を閉じると独特の浮遊感がした。左右上下がわからなくなる、自分が無重力に暗闇を漂っているような。眠る前にたまに感じるあれだ。

調香師というには、俺のつくるものにはブランド性がないしオリジナリティにも乏しい。しかし町では珍しい練香水を専門にしていることで、俺のつくるものには一定の人気があった。強く香りすぎず、手軽で安価な練香水は労働層の需要が高い。液状の香水は主に富裕層や女性のナイトフレグランスとして人気があるけれど、あまり裕福でない人々の多い町ではそういったブランド的な香りは厭まれた。俺は自分で材料を集め精油から始めるので、当然のようにそれは自然の香りになる。
市場に出回る香水はすべてどこからか運ばれてきたものだ。俺は誰にも認識されていない、しかし、確実にこの町で唯一の調香師だった。IDさえあれば、影に隠れずもっとちゃんと働けて、今より金が稼げるはずなのだ。
そうしたら俺はあの城を買うことができる。幼き日を過ごしたあの城を。

頭の中にその情景を描く。苔だらけの要塞のような外壁の中には煙突が崩れ落ち屋根には穴の開いた家がひとつあるだけだ。城と呼ぶには滑稽で、小屋と呼ぶにはもうすこししっくりくる呼び名があるんじゃないかな、といったような、その程度の家だけれど、敷地は十分に広く、触ると鋭く指を裂く雑草や四季を感じさせる花々や食べられる実をみのらせる木が共存する神秘が美しい。まわりは何もない野原で、裏手は森になっている。その森の先がジンベエの湖だった。
気付けば俺は歩き出していた。湖に帰るためではなく、俺の城を訪れるために。






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