高い高い屋敷の塀はところどころ崩れ落ち、石と石の間にはみっちりと苔が生えていた。その苔は靴底を滑らせる油のような役割を果たし、そこをのぼる邪魔をした。また、苔からはむかでや蜘蛛がにゅるりと這い出し、大抵ハーフパンツを身に着けていた俺の足を容赦なく噛むのだった。
まだ子どもだった俺たちにその石垣は要塞のように見えたけれど、俺たちはそれを城壁と呼んだ。俺たちはその古い屋敷を、冒険をするために訪れていたのではなかったのだ。俺たちはそこへ帰っていた。不気味な古い屋敷はまさに俺たちの城だったのだ。



俺の朝は早い。しかし町はまだ眠っている時間のはずだった。

「騒がしいな」

俺が呟くと、井戸に上半身を乗り出していたジンベエは縄を握ったまま動きを止め、ちらとこちらを振り返り、水のたっぷり入った桶を小さいうめき声と一緒に地面におろした。彼は体が大きく力もあるが、歳のせいか腰の調子が悪いのだと言った。

「エースさん知らねえのか。本当だったら昨日帰ってくるって話だったが、到着が遅れたらしい」

「帰るって誰が」

玄関先の石階段はひんやりと冷えていて座ると冷たかったけれど、俺はそこでパンをかじりながらじっと耳を澄ませた。朝の空気は鼻につんとする。ジンベエは静かに笑った。

「オヤジさんさ。エドワード・ニューゲート」

ジンベエの声がひどく遠く聞こえた。港の喧騒も。俺にとってはこの冬の朝の鋭く美しい空気と、咀嚼するパンの味だけが妙に現実的だった。



「領主の館ってのはどっちだ?」

港の喧騒もすっかり静まり、しっかりと仕事をこなした夕方6時。あたりはもう暗い。あたたかみのあるオレンジ色の街灯が夜の街を照らし、ずいぶんと年季の入っているそれらは風に吹かれて小さく揺れている。
待ち合わせでもしているのだろうか、しきりに時計を気にしながら煙草を吸ってアパートの壁に寄りかかっている男に声をかけた。男はあからさまに値踏みするように俺の体の上から下までしっかりと目線を走らせて、最後に俺の顔をじいっと見つめる。俺は苦笑いをする。

「見ない顔だな」

「そうかもしれない」

「この小さな町で」

「変かな」

「いいや。よくあることだ」

男は煙草を地面に落とし、靴底で踏み消した。体の細さに対し、彼の履いている靴はすこし大きそうに見えた。

「領主に用事か。今日はやめといたほうがいいと思うぜ。戻ったばかりだし、きっと宴だ」

「町は静かだ」

「領主ったって王様じゃねえ。ただこの辺の地主だってだけの話だ。町をあげて歓迎なんてしないさ。好かれているから、朝の港はすげえ騒ぎだったけどな」

まあどうでもいいから早く領主の家を教えてくれよと思ったけれど、男が時折寄越す視線は好奇に満ちていた。ちょっとまずいな、と俺は思う。まさかこいつ保安官じゃあないだろうな、と内心焦りつつ鼻をすすると、男はくしゃみをした。

「ああ、くそ、寒いな。ローのやつまったく来やしねえ」

「あんた医者待ってんのか」

男の視線から鋭さが失われたのがわかる。俺がこの町唯一の外科医の名を知っていたことで、すこし不信感が薄れたのだろう。俺はほっとする。別に悪いことをしているわけじゃあないんだけれど、なんとか証明書だとか身分だとか、正式な町の住人ではないから私生活を聞かれたらめんどうくさいし、ジンベエにも迷惑がかかる。
しかし医者を待っているとなると、この男の家族が怪我でもしたんだろうか、またはそのあたりで事故でも起きたのだろうかときょろきょろすると男が笑った。

「そんな顔してんじゃねえ、何もねえよ。ただ飲みに行く約束してただけだ」

「ああ…」

「俺はキッドっていうんだが、おまえは?寒いし1杯付き合わねえ?おごらねえけどな」

「じゃあ行かねえ」

首をふって断るとキッドは笑って、そう言うと思ったと俺の肩を叩いた。そうして店の入り口に向かったが、入り際に振り向いて俺の後方を指した。俺はその指先を追って振り向き、再びキッドを見る。彼は今度はまっすぐ伸ばしたままだったその腕を肘から直角に左に折る。そして、ピース。

「その道をまっすぐ行って、最初の角を左に曲がったら広場に出るから、2番のバス停のある道を行け。そうすればあとは見ればわかる」

礼を言おうとしたけれど、口を開いたときには既にキッドの立っていた扉は閉まっていた。俺は頭を掻く。広場か。そんな町の中心を知らない前提で道案内されるなんて、町に詳しくないのがばればれだ。参ったな、と吐いた溜息は寒さですっかり白くなっている。
今日はやめておけと言われたけれど、話は早いほうがいい。コートの襟を正すと、寒さに歯ががちがちと鳴った。

領主のことはよく知らないけれど、仕事は宝石商だと聞いている。きっとすごく金持ちなんだろうなと思うと多少腰がひけそうな気がしたが、まあどうにかなるだろうと開き直って歩き出す。
さて、道はどっちだったっけ?とりあえずあたたかい食べ物と体をあたためる酒が欲しかったけれど、今更キッドのところには行けないなあと思うとちょっとだけ名残惜しさを覚えて振り向いてみる。当然のように扉は開かない。
まあ、どっちにしろ、満腹になるとすぐに寝てしまうのだ俺は。帰るまでの辛抱だと、ポケットに手を突っ込んだ。






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