テレビをつけると特にかわいくない天使が独り言を言っている。これは何だと俺は思う。ああ。素晴らしき哉、人生。
そしてようやくローが泊まっていったことを思い出す(彼はなぜかいつも去り際、俺のDVDプレイヤーにこのディスクをセットして帰っていくのだ)。シャワーの音は聞こえないが換気扇のまわる音がする。彼は帰ったのだろう。カリキュラムの緩い文系大学生とは違い、彼は専門学校生みたいに朝っぱらから学校がある。俺なら1限の講義なんてとらないね、絶対に。
大きくあくびをした。空気が悪い。目頭を爪でかっぱきながら窓を開けると、もう秋から冬に変わろうという季節だというのにタンクトップを着た変なおっさんが犬の散歩をしている。犬は最高だ。非常にかわいい。
俺は窓の桟に腕を置いて煙草を吸いながら電柱にマーキングしている犬を眺めた。そうしていると連想するのはやはりバイトのこと、マルコのこと。うきうきと去っていくマルチーズのかわいらしいおしりを見送り、俺は昨夜ローが泊まっていったという確実な証拠を探すべくきょろきょろと部屋を見回した。何をやっているんだと自分でも思うが、ローが持ってきた話が現実であることを確かめたかったのだ。
なぜなら俺は時折考えることがあった。
ローがまた一緒に働こうと誘ってくれれば俺は戻れる。サッチが人手が足りないんだと連絡をくれれば俺は戻れる。顔も見たくねえと言い捨ててマルコと別れたから、意地で、自分からあそこに戻るなんてできなかったしたとえマルコが連絡をくれたとしても戻るなんてできなかった。マルコが連絡をくれるなんて、そんなことはなかったのだけど。もちろん。

冷蔵庫を開けたらサンマがあった。俺はちょっとうんざりした。こいつはいらない。俺がほしいのはその後に「日曜8時」を引っ提げたローが俺の部屋に泊まっていった証拠である。
バスルームを開けると換気扇がごうんごうんと低空飛行機のエンジン音のように唸り、使った覚えのないタオルがバスタブの縁で丸くなっていた。間違いなくローだ。彼はなぜかフェイスタオルをくるくる丸めて置く変な癖がある。
証拠として、これはなかなか悪くはない。俺は洗濯機にフェイスタオルを放り投げて、缶詰の桃をあける。シロップの甘いにおいが漂った。たまたま手に取ったフォークはパスタ用のものだったけれど構わずに桃を突き刺し口に運ぶ。咀嚼しながら冷凍庫の食パンを2枚トースターにセットする。桃のふた切れ目を口に入れると、コンロに設置したままになっているケトルを持ち上げて重さを確かめる。じゅうぶんな水が入っている。そのまま火をつけて、みっつ目の桃を食べた。
パンが焼けてコーヒーができあがるまでの間に、そういえばと俺は携帯電話のチェックをする。頻繁にメールや電話をする友人はそう多くはないが、大学も3年になると講義以外の諸連絡も増えて来るし、今のバイト先のレストランはよく食材を切らすのでバイト前のおつかいを頼まれることも多々ある。
メールが3件届いていた。俺が期待した休講通知ではない。1件目、サッカーニュース。昨夜行われたCLのグループリーグ、結果。俺の好きなチームは予選落ちしたので軽く流す。2件目、知らないアドレス。開いてみる。携帯の買い替えに伴ってメールアドレスと電話番号変更の連絡、ゼミの友人より。3件目、サッチ。
サッチの名を見て俺は一瞬思考を止めたが、俺が了承した意をローが伝えたのだろう。何も不自然なことはない。案の定、メールの用件はそれだった。サイドボタンを押してメールを読み進める。サッチのメールは無駄が多い。つまり、長い。トースターが俺を呼んだので画面を見ながら座っていたベッドから腰を浮かせて、そして俺は思わず画面を二度見した。
指先の体温が冷えるのを感じ、胃に熱い胃液の存在を感じる。ただようパンのにおいが憎たらしい。あわててメール画面を閉じ、リダイヤルからローの番号を探す右手が情けないほどに震えている。昨日までもうマルコのことでこんなに慌てることはないと思っていたのに、いざこの状況に陥ると頭の中はパニックだ。脳細胞が走り回っているどたばたとした足音の幻聴まで聞こえる。おまえらうるさいんだよ、裸足のくせに。もちろんそれはただの俺のイメージだけれど。俺のイメージする脳細胞はコンビニでよく見かけるグミみたいにやわらかい四角形で、真ん中のなんとかなんとかっていう部分は目玉になっていて、体から直接足が2本生えている。気持ち悪い生物だ。意地が悪くても驚かない。
コール音が響いているのにまったくつながる気配がない電話に俺のパニックはいらいらに変わる。普通に考えたらローは学校だなと気付いて電話を切った。でも講義の合間に連絡をくれるように、しつこいくらいに着信を残してやろう。




出会ってすぐに、それも男と、体の関係を持つなんてどうかしている。
しかしマルコはふつうの日々に退屈していたし、俺はとにかく無鉄砲だった。結局俺たちはふたりとも普通でいることに価値なんて見出していなかったし興味や欲や本能に忠実な性格だった。
俺は出会って数週間で彼に惚れた。俺がマルコに惚れているのは彼にすぐにばれた。そしてキスをした。馬鹿じゃないのか、と自分でも思う。そしてその結果たった4か月でせっかく始めたバイトをやめることになったのだから情けないにもほどがある。今思えば、別にやめなくたってよかったんじゃないのかとも思うが、あのころの俺はまったく冷静になれなくて、とにかくマルコの顔が見たくなくて、あの男から離れることしか考えていなかった。



「おまえは抱かねえ」

2回目にマルコの家に行ったとき、ドアを開けるなりマルコはそう言って俺の肩を押し返した。
俺は呆然とした。彼の家に忘れた時計を取りに行っただけでなぜいきなりこんなことを言われるのかわからなかったし、なぜこんなにも拒絶されるのかわからなかった。
わけがわからなさすぎて、一度はドアが閉まるのを見送ってしまったけれど、我に返って扉を引く。びくともしない。鍵がかかっていた。

「ふざけんじゃねえぞ!開けろこの野郎!」

夜の11時過ぎに騒がれたら、翌朝6時には起きなければならない隣人はさぞ迷惑だろう。マルコもそれを考慮して、わめく俺を招き入れざるを得ない。俺だって非常識な人間ではないのだ。目的さえ果たせば、あとはおとなしくする。できるだけ。
突然思い切り開いたドアを持ち前の反射神経で左に避ければ、右手を掴まれて引きずりこまれた。玄関に散らばる彼の靴と段差につまずいてつんのめったけれどなんとか体勢を整えると、俺を追い出そうとしていたはずのマルコは今度は俺を逃がさないとでもいうようにドアの前で腕を組んで俺を睨み付けていた。

「わかんねえか。おまえは要らないって言ってんだよい。エース」

そのときの彼の瞳はつくりもののように見えた。濁りのないきれいなガラス玉。とうめいすぎて無感情なそれはまさに大量生産される類のもので、そのガラスが埋め込まれた皮膚がまばたきをするのが不思議なくらいだった。
冷たい瞳に対して彼の声には抑揚があった。そして俺はようやく、マルコが何と言ったかを理解することができたのだった。
なぜあのとき俺は何も言い返さなかったのだろう。簡単だ。言い返せなかったのだ。何も返す言葉が浮かばなかったのだ。
悲しみは感じなかった。体がほてるほどの怒りにまかせて彼を殴りつけたけれど、そのとき俺は確かに、俺もマルコなんていらない、という感情だけで動いていた。
マルコは俺をいらないと思った。俺もマルコのことをいらないと思った。俺とマルコの別れは、こんなにもシンプルで本能的なもの。だからこそ厄介だ。それは修復できる類のものではない。完全には戻らない。



トースターは完全に静まりかえっている。
湯が吹きこぼれてコンロの火と争う音が聞こえたので、俺はあわてて携帯をベッドに放り投げた。






11.11.01




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