「逃げるな、エース」

俺の髪を痛いくらいにぎゅっと掴み、無理やりに視線を合わせた男の声音にも顔色にも、不思議なことに、強引さはまったく見て取れなかった。ただ髪を掴む力だけが強い。俺は頭の片隅で、自分の頭皮が鳥肌を立てるみたいに毛穴からぷつぷつと突起する様子を想像した。俺の髪は量も多く太さもしっかりとあるのでそう簡単には抜けない。素晴らしいことだ。
俺はマルコの顔をただ眺めることしかできない。顔の向きはマルコの正面に固定されてしまっているし、そうなってしまえば視線を逸らすことができなかった。
マルコの瞳は青かったけれど、お世辞にもきれいではないなと俺は思った。彼の青はすこしくすんだグレーがかった青であり、それはミュージシャンのミュージックビデオでアクセントになるような鮮やかな青ではないし、ムービースターの輝かしいそれとも違っている。それは古い絵画を思わせた。時間が経つにつれて色が褪せてしまったのか、はたまた事実を見たままに彩ったせいか、どこか庶民的な、うそっぽさのない現実的な青。カポーティの描いた社交界のリアリティ、ゴバディの映した国際社会、カミュの見た人間というものの本性――ハードボイルド。彼の瞳はまさにそれだった。冷酷で無関心な色をたたえ、しかし人間的に、情熱的に充血している。
俺は魅入った。
それが間違いだったのだ。



ふとモニターの右下に小さく表示された時刻を見ると夜もずいぶんと深い時間になっている。頬杖を外すと、腕がじいんと痺れていた。
ローが帰ってしばらく経つが、どうにも集中できない。頬に被せられていた左手はとっくにキーボードを叩くことを放棄しているし、右手にはもう何十分も火をつけないままでいる煙草を挟んだままだ。俺は舌打ちをして、右手をそのまま缶ビールに伸ばした。それはすっかりぬるくなってしまっていた。
俺は左手の小指を噛む。ほんのりとした痛みは俺の頭を現実へと引き戻してくれたけれど、非日常的な指を噛むという行為は俺を再びどこか恍惚とさせる。

逃げるな、エース。
その言葉のあと慰めるように眉間にキスを落としたマルコの唇を追うように口づけたのは俺のほうだった。がっついて彼の両肩を握り、そのまま壁に押し付けたのも俺のほうだった。彼がほしかったのは俺だった。彼に惚れたのは俺だった。
俺の体を貪ったのは彼だった。俺を捨てたのも彼だった。
とん、と煙草のフィルターを何度かデスクで叩く。マルコがよくやっていた仕草だった。彼の吸う銘柄は葉が柔らかく、ばらつきやすいのだと言った。その証拠に彼の脱いだシャツのまわりにはよく煙草の葉が散らばっていた。彼は煙草を胸のポケットにしまうから。
それにしても、俺もまったく見事な片思いをしていたもんだ。煙草に火を点け、煙を吐く。そして微笑む。まだ半年しか経っていないのに、マルコのことを考えても俺はもうこんなふうに笑える。

年中マナーモードの携帯が、ジャージのポケットの中で震えた。

「日曜8時。遅れるなよ」

「おまえはエスパーか、ロー。怖えよ」

「そろそろおまえがもうなんでもいいや断り続けるのも面倒くせえし仕方ねえ行ってやるか、って思い始める頃だと思ってな」

「はいはいまったくその通り」

俺が肩をすくめたのが伝わっただろうか。ローが笑った気配がした。

「さて吹っ切れたところで部屋に入れてくれ」

「はあ?」

「寄り道しつつ駅に行ったら終電がなかった」

「おまえ本題そっちだったろ!」

返事の代わりにずずっと鼻をすする音が聞こえて、インターホンがあるというのにドアが原始的にこんこんと鳴った。その音は案外控えめで、ローの意外とかわいい部分に思わず笑ってしまう。
俺はローの寝場所を確保すべく床に放られたジャケットと鞄を足で避け、玄関のドアに手をかけた。


風呂を勧めたが、ローは朝一で入ると言って毛布を抱き込んだまま床で眠ってしまった。この男は何か抱くものがあれば固い床だろうと眠ってしまう。どこでも眠れるという点で言及する気はないけれど。言及したとして、俺の負けは目に見えているからだ。俺は眠いと思ったらどこでも眠れる。それこそ咀嚼したままでも、キスをしたままでも。
俺はスエットの上に羽織っていたジャージをローに当たらないように放り投げて鼻先まで羽毛布団にもぐりこむ。小指でそっと唇を撫でた。キスをしたことは何度もある。初めての彼女は中学生のときだったし、高校時代はなかなかにもてた(たぶん運動ができたからだろう)。それでも俺がそういう行為をおもうとき、思い出すのはいつもマルコとのそれだった。彼の口にはいつも口内炎があった。栄養を摂れとからかったら、じゃあ栄養のあるものをつくってくれとせがまれて、初めて入ったマルコの家で彼と初めてのセックスをした。
その1回きりだった。2度目はなかった。
次にマルコの家に行ったとき、俺はマルコの顔面を持っていたバッグでぶん殴り、さらにそのバッグを投げつけ、そうして俺は彼の元を去った。財布と携帯と家の鍵はすべてポケットに入れてあるから、バッグそのものだけが惜しい。中身は別にいい。飲みかけのスポーツドリンクとレジュメ中心だから大して使わない講義のテキスト、前期が始まったばかりだったからまだほとんど何も書かれていない大学ノート、入っていたのはそれくらいだ。
すん、と鼻を鳴らすとまだ思い出すことのできるマルコのにおいに、俺はそれを振り払うように寝返りを打った。
目を開けると、真っ暗な中で、暗闇に多少慣れた目はローの白い帽子を捕らえる。いつも被っているこれは何なのだろうか、絶対に夏は暑いと思うのに。そういう俺もいつもしているブレスレットがあるし、マルコにはいつもベルトに重ねるようにして巻いている金属のよくわからないアクセサリーがあった。彼らの趣味はよくわからない。まあ結局、他人のこだわりや趣味は他人にはよくわからないということだ。『裸のランチ』みたいに。
そんなことを考えていたらマルコの静かな部屋に響くその金属音が聞こえるような気がして、ああもう、普段は全然あの男のことなんて思い出さないというのに。俺がこんなふうに落ち着かないのもローがバイト復帰の話を持ちかけてきたからだ。
日曜8時、とローは言った。明日は金曜だ。2日の猶予がある。その間にこの、血管をパチンコ玉が流れているような、どくどくと体をめぐる落ち着かなさもどうにか静まっているだろうと、俺は目を閉じた。
何も考えずに眠るのだ。




俺はサボと暮らした家を解約してすぐにペットショップのバイトを見つけた。もちろん命を扱う仕事だから、俺はペットのほうじゃなくて、ペット用品のほうだ。レジを打ったりペットフードのチェックをしたり、品出しをしたり、そういう普通の仕事。
ローは近くの医科大学に通う学生で、このバイト先で知り合った。医者は医者でも獣医師になりたいのかと聞くと、彼は外科医になる予定だと言った。実習などで忙しいようで彼のシフトは相当減っていたけれど、それでも店には頻繁に寄っているらしく、意外とかわいいものが好きなローは単に動物が好きなのだ。
マルコはオーナーの昔なじみのトリマーだった。同じ敷地内にあるサロンブースで客をとり、また店の動物をきれいにする仕事も担っていた。
マルコの外見からトリマーなんて仕事は結びつかなかったけれど、心理学の研究からペットセラピーに至り、それを研究するうち動物に触れたくなったのだと彼は言った。

「給料的にはとんでもねえキャリアダウンだが、俺はこのほうがいいよい。もともと他人の幸せや安寧なんて考える柄じゃねえ」

「子犬を愛でる柄でもねえけどな」

「うるせえよい。柄じゃあなくても実際そうなんだから、俺はおまえに目ェ付けた」

閉店間際のコーヒーショップでマルコはそう言っていやらしく笑い、俺の顎をすくう。彼はよくそうやって親指で頬を撫でた。父親がちいさい娘の食べかすを拭ってやるように、ゆっくりと、やさしく、一流のハーレーのエンジン音みたいなテンポで。

「俺は動物じゃねえよ」

「でも愛しい」

真っ赤になった俺はふざけるなとプラスチックのコップごと、マルコに水をぶっかけた。今思うにあそこでコーヒーカップを投げなかったのは無意識に働いた理性というものだろう。彼の服がコーヒーのしみだらけになり額に当たった陶器で血まみれになったのならさすがの俺でも笑えない。
当然のようにマルコは激怒して、俺は反射的に逃げ出して、しかし店を出てすぐに追いつかれて殴り飛ばされたのはなかなか良い思い出だ。阿呆くさい出来事ほど、楽しかったと記憶に残る。
そうだ、楽しかったのだ。
マルコとキスをするようにならずとも、彼と過ごす時間は楽しかった。クールに見えるくせに感情に素直なマルコは扱いにくいと思うことも多々あれど、全力でぶつかってきてくれるから、歳の差なんて感じずに、俺はただ楽しかったのだ。
訪れた眠気に俺は素直に身をゆだねる。独特の浮遊感に身を任せる。
マルコに会う日が楽しみだ。マルコに会って、そして俺がどうしたいのかなんて、そんなものは会ってみなければわからない。彼が変わっていないといい。半年で人間そう変わることなんてないと思うけれど、それでも俺はそう願った。






11.10.14



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