ひどく静かな夜だった。
こんな静謐にありつくのは一体いつ以来だろうかと考えるも、それは結局は空想の塑像でしか有り得ない。最後に感じた静寧を思い出せるほど陸上生活が長かったわけじゃない。
海は常に声を出す。海面を叩く波音、船にぶつかる水音、びゅうびゅうと帆を荒らす海風、仲間を呼ぶ鳥の声。そんな自然の声よりも喧しいのは船内に絶えない仲間たちの声や彼らの立てる音なのだけど。

火のついていない煙草を挟んだ指を手首を振るようにして右に傾けると、呆れたように目線をぐるりとさせたエースが左手の人差し指に灯した炎で火をくれた。

「ありがとよい」

まあ、いいさ。とでも言うようにエースは左手を挙げる。伸ばしきっていた両膝を折り、その上に左腕を置くと、右手をサイドテーブルの上のクッキーに伸ばした。その動作は緩慢で、寝起きに時間を確認するようなめんどうくささが感じられた。湿気たクッキーは彼がかじってもたいした音を立てなかった。

「だめだ、だるい。マルコ」

ずっとベッドの上に肩が触れるくらいの距離でとなり合っていたというのに、エースが声を出すのはしばらくぶりだった。30分は沈黙を通していたんじゃないだろうか。
そのままずるずると腰を歩かせて寝ころんだエースは視線も合わせずに俺の煙草を奪い、一口だけ吸い、返した。

「おまえが弱音吐くなんざ、相当だな」

「弱音じゃねえよ。事実だ」

「なんだそりゃ」

髪を梳いてやると、気持ちよさそうに目を閉じる。普段はのびのびと、あまりにも自由に生きているせいで気付かれないことが多いけれど、この男は根本は賢い。静かに目を伏せる表情は、彼のかすかな知的さを顕著に表した。

「マルコ、煙草くさい」

「当然だろうが、吸ってんだから。我慢しろい」

「なんで」

「海に落っこちたアホ野郎の面倒見てやってんのは誰だと思ってる」

「いやあ、重力ってすげえなあ」

「殴られてえか」

エースは力なく笑った。見ていられなくなって正面を向き、2本目の煙草をくわえる。今度はねだる前に火のついた指が俺の視界を通り過ぎた。指が視界から消えた後、煙草にはしっかりと火がついていた。


以前にも一度だけ、こうして力なく笑うエースを見たことがある。
その日はデッキに出ると、太陽のにおいがしていたことを鮮明に覚えている。晴れている日に毎回太陽のにおいがするわけじゃない。毎日空気を感じているとそれがわかる。人間が太陽のにおいを感じるときは、なにかしらの予感を抱えているときだ。
その予感の善し悪しは問題じゃない。太陽のにおいを感じたら、確実にその日は何かが変わる。
あれはいつだった?
エースが初めて自分のことを話したときだ。
彼は自分の出生のことを親父にだけ告白していたらしく、そしてその親父がみんなの前で口を滑らせたんだっけ。あの親父のことだ、わざとだったのかもしれないけど。
とにかくまったく心の準備ができていなかったエースはひどく慌てていたけれど、常の彼からはほとんど見受けられないほど冷静で大人びた口調で、簡潔に事実だけを伝えた。そして不安を隠すように力なく笑ったのだった。
俺は彼の出生になんて興味がなかったし、そんなものよりも、そのときに見せた態度に、口調に、表情に、初めてポートガス・D・エースという男を見たような気がした。
俺は彼の笑顔が怖い。

「静かだなあ」

とエースが言った。俺は相槌を打つ代わりにエースの膝に手を置いて、そこを支点にしてエース側に置いてあるクッキーに手を伸ばした。アーモンド・クッキー。狙ったのはバニラ・クッキーだった。仕方ない。こういうときもある。

「湿気てんぞ」

「わかってるよい」

「なあマルコ、なんでここはこんなに静かなんだ?」

「ここは陸で、真夜中だから」

陸か。エースはそう呟いて窓を見た。きっちりと閉められたカーテンは俺の手の届く範囲にあったので、半分ほど開けてやる。満月だった。エースもそれに気付いたのだろう、ふうっと息を吹きかけてランプを消した。
月明かりが差し込む。窓のかたちに彩られた光に、俺とエースの影がうつりこむ。

「マルコと一緒のベッドで寝るなんて初めてだな」

「そうそうあってたまるかよい」

「違いねえ」

俺は煙草を吸った。エースはまたクッキーをかじった。たっぷり20秒の沈黙を経て、エースがこちらを向いた。

「…なんで俺ら一緒のベッドにいるわけ?」

「お前、よく見ろ。この部屋のどこに椅子がある。俺にお前が回復するまで立ってろって言いてえのか」

エースは納得したのか、口をもぐもぐさせたまま首を大きく4回縦に振った。
普段あれだけ元気なエースがこうも消耗してるとなると、さすがの連中も邪魔をする気にならないのか、宿への出入りはない。きっと、酒場でここぞとばかりに楽しくやっているんだろう。下手な真似してなきゃいいがと俺は思う。

「自分から申し出たんだろ、マルコ。俺の世話」

「どうしてそう思う」

「さあね。ただなんとなく。あんたのことだから」

「まるで俺のことよくわかってるような口振りするんじゃねえよい」

エースは笑って、俺の右手に握られたままだった煙草の箱から1本抜き取り、口にくわえた。小指でちょろりと火をつける。二口ほど吸ったところで、もういらねえ、とでも言いたげに首を軽く振ったけれど、結局また口をつけた。

「あんたのことわかってるなんて言うつもりはねえよ。でもあんたは、俺のことをよくわかってるから」

わかってるもんか。と俺は思う。しかし彼がいちばん自分をわかっていると感じるのが俺だというのなら、俺は彼のいちばん近い位置には立てているのだろう。
あまり嬉しくなかった。近い位置に立つことにあまり意味はない。距離というのは曖昧なものだ。それを推し量ろうとしたって、大抵は机上の空論にしかなり得ない。それはひどく脆薄で、ものものを儕排する。
近くに立つことに意味はない。隣に立つことに意味がある。そうでなきゃ、満足に背中すら預けられない。

「なあエース」

エースは返事をしなかった。こちらに顔を向けもしなかった。しかし意識は、その視線は、確実に俺に寄越していた。

「なんでおまえ、デッキの手摺で背中から落ちるなんてアホなことになった」

「上を向いたら、」

「上を向いたら頭の重さが重力に負けた、なんて定型文は求めてねえぞ」

エースは自分が食事をしたあとのテーブルの汚さを指摘されたときみたいな顔をした。そう言うつもりだったらしい。

「でも、本当にそうなんだよ」

「じゃあなんでそんなになるまで仰け反ったんだよい。風船でも飛んでたか」

「ガキか俺は」

「ガキだろい」

「ああ、もう、本当俺はあんたにゃ適わねえ」

エースは両手両足を伸ばして大の字になった。俺が狭い。その手足をどけろと蹴飛ばせば、彼はごろんと丸まった。猫なんてかわいいもんじゃない。まるでイモムシのように、丸まったまま適当な姿勢を探してもぞもぞ動いている。
姿勢が決まったらしいエースは、うつ伏せるように左腕に口元を埋め、じっと目を伏せた。そして目で確認しなければ触れられていると確信が持てないくらいにそうっと軽く、俺の太股に右手の指を添える。

「太陽のにおいがしたんだ」

だから太陽を見た。
俺はさっきのエースみたいに腰で歩いて寝転がった。エースとの距離が近くなる。エースは笑った。近えよ、馬鹿、と楽しそうに。
エースの髪を撫でると、ふわりと香る。
昼間にいやというほど含んだ、太陽のにおいだった。



百万度のコロナ






11.01.29


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