パソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ間に部屋のカーテンをしめる。ペットボトルを握った右手の小指で扱いなれたログインパスワードを入力し、左手で作成していた携帯メールを送信した。毎日同じ動作を繰り返していれば、効率がよくなりもする。
完全にパソコンが立ち上がったところで俺はようやくデスクに向かって座り、手を使わずに靴下を脱ぐ。学生時代のルームメイトはこの動作をひどく嫌がったものだった。彼は服を脱ぎ散らかすのを嫌うくせに、自分は煙草を吸いながらうろうろしてあちこちに灰を撒き散らす。おかげで俺は家の中でしっかりスリッパを履く習慣がつき、それは今もすっかり染みついてしまっている。
高校までは、弟のルフィと住んでいた。大学に入ると、幼馴染のサボとふたりの通学距離が平等になるような場所に部屋を借りた。もともと2年間の契約だったので、大学3回生になると同時にアパートを解約した。大学が決まったときから、俺は3年からキャンパスが変わることがわかっていたし、サボも留学することがわかっていた。
部屋にはパソコンの呼吸と、俺が時折煙と一緒に吐き出す息遣いだけが響く。初めての一人暮らしはすこし寂しい。

毎日が同じことの繰り返しだ。大学生活はたいへん自由で、ずっと学生をしていたいと思わせるほどに楽しいけれど、大学と家とバイトを行ったり来たりするだけの生活。性に合わなかった。何か楽しいことねえかなあ、と呟いてしまうくらいには。こうしてレポートに向かっているだけで楽しいことが降ってくるわけもないのだけれど。1、2年で般教の単位をもっと取っておけばよかった。そうしたらもうひとつくらいバイトを増やすか、何か趣味に打ち込むか、できるのに。
きりの良いところまでレポートを書き終えると、風呂をためることにした。明日の講義は午後からだから、比較的夜の時間に余裕がある。駅で購入したときには服の袖を伸ばさないと持てないくらいあったかかったホットレモンはすっかりぬるくなっている。俺はそれを一気に飲み干して、リモコンでテレビのスイッチを入れると同時にコンロに火をつけた。あついコーヒーがほしい。
電源を入れたテレビからはなつかしきマカロニウエスタンのイントロが流れている。テレビは契約をしていないので映らない。しかしDVDだけは見れるので、小型の薄型テレビジョンは毎日一流のスターばかりを映す。これって実はなかなか贅沢な生活だ。くだらないものを見ずに済む。俺の耳に、目に届くのは俺が好きなものだけだ。
電話が鳴った。

「はいはいもしもし」

「サンマは好きか?」

「いや、そういうのは要らねえ」

電話の相手はローだった。部屋の、自分でもあまり趣味が良いとは思っていないカーキグレイのカーテンを開けて手で屋根をつくるがうまく外を見ることができない。窓を開けるといかにも秋というかんじのする、冷たいけれど冷たすぎない、アーネスト・ヘミングウェイみたいな風がデスク上のレジュメをばたつかせた。

「ロー!」

携帯電話を顔から離して外に向かって声をかければ、暗闇の中に白い物体が浮かび上がる。彼の帽子だ。ローがこちらに向かってピースサインを向けたのがわかった。俺は苦笑して、上がって来いよとジェスチャーをする。ローのぼんやりとした白いシルエットが建物の屋根の下に消えると、俺は窓を閉めて鍵を掛け、インターホンの本体を操作してオートロックを解除する。貧乏男子学生の一人暮らしに厳重な防犯は必要ないだろうと思うけれど、たまたま気に入った物件がオートロックだったまでのことだ。

部屋に入ってきたローは靴を脱ぎながらビニール袋に入れたサンマをこちらに向かって突き出した。俺は肩をすくめてそれを受け取る。キッチンにしゃがみこんで冷蔵庫に生魚を押し込んでいると、ローは煙草に火をつけながら無遠慮に部屋の奥へと入っていく。

「一人暮らしへの手土産がサンマとかねえだろ」

「今サンマを食わずにいつ食うつもりだ?」

「サンマっていうことよりも生魚ってのが問題なんだよ。後片付けが面倒くせえしすぐ腐っちまう」

「すぐ食えばいい」

ローはデスクチェアに足を組んで座って、さも当然というようにそう言い放って煙草を持った右手をくるりと回しながら俺に向けた。俺の心情を一言であらわすならこうだろう。「やれやれ」。ジャン・リュック・ゴダールってかんじ。
ローは時折俺の部屋を訪ねてくるけれど、ベッドに座るのを嫌がるので必然的にデスクチェアが彼の定位置になる。俺の部屋に座る場所といえばベッドかデスクチェアしかない。そして灰皿はパソコンの横にひとつ置いてあるきりなので、俺はひもじくベッドの上で携帯灰皿を握るはめになるのだ。テーブルを買おうかな。置く場所がないけれど。
ローはボリュームを耳に音が届く最小まで絞ったテレビに目を向けた。

「ネロか。悪くない」

「なにが悪くない、だよ。大好きなくせに」

「うるさい」

はは、と笑うと宙に煙の塊が現れた。それを吐きだしたのは自分だというのに妙にごたまったそれはなんだか気味の悪いかんじがした。それを見つめ、なんだかいやなものを生み出してしまったなあ、とぼんやり思う。料理に失敗したときと似ている。

「それで?何か用かよ。今日木曜だろ?バイトじゃねえの?」

「バイトだったけどな、今日は空いていたし、重大な任務を任されたから早上がり」

「嫌な予感しかしない」

「そう言うな。働こうぜ」

「もうあそこじゃ働かねえって言ったろ」

「ご指名なんだよ、ポートガスくん」

ローはとても器用に片眉を上げた。その仕草の完璧さは、彼が西部劇やマフィア映画ばかり見ていることを露呈させていることに彼自身気付いているのかいないのか。わざとなのかもしれない。

「弱虫め」

「誰がだよ。俺は強いぜ。フェリージのバッグを見捨てるくらいには」

皮肉が大好きなローはとてもうれしそうに笑った。楽しさしか感じさせない笑い声は聞いていて気持ちがいいものだ。俺もつられて笑った。学生が持つにはすこし高いフェリージのバッグとその中身を見捨てざるを得なかった日のことをぼんやりと頭の端っこで思い出す。最後にマルコに会った日のことだった。




アグリアスの羽音





11.10.01






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