唇を離すとマルコはゆっくりと目を開けた。そのけだるそうなのんびりとした動作に俺は釘づけになった。ふたりとも無表情だけれど、そこには恍惚とした雰囲気があった。
マルコは何も言わず、裸の俺の肩を抱いた。俺はおとなしくすり寄る。するとマルコは俺の頭を自分の肩に乗せて、頭を抱いたまま微動だにしないので、俺はさすがにこれは恥ずかしいと身を捩った。マルコの名前を呼んでどうにかしてもらおうと口を開いたけれど、大きく息を吐きだすその音は満足げで、胸の上下運動はすっかり安心しきっていて、俺はまあいいかと思ってしまった。明日の朝のことは、明日の朝になってから考えればいい。今夜はこのまま眠ってしまうべきだ。
目が覚めると、肘を立てて枕にしたマルコが俺を見下ろしていた。俺はびっくりして自分の体が飛び上がったのがわかる。あわててシーツを掴まなければ、俺はコメディみたいにベッドから転がり落ちていたところだろう。本当だ。それくらいこのベッドはふたり眠るには狭すぎるし、それくらい俺は驚いた。
「見てんなよ!」
顔面に平手打ちをくらわせると、それを予想していなかったらしいマルコは間抜けなうめき声をあげて両手で顔面を覆い、ベッドに仰向けに倒れこんだ。
「てめえ…エース…痛えよい…」
「自業自得だろうなんてことしてんだ!」
クルーにもらったおさがりだからちょっとウエストのゆるいズボンを整えてベッドから降りると、マルコのグラディエーターは両足ともゆるめられているだけでしっかり足に纏わりついており、俺はつい笑ってしまった。
「なに、マルコ、風呂入ってねえなとは思ったけど靴脱ぐ暇もなく落ちたのかよ」
「ああ…しまった…どうりで体がだりいわけだよい」
マルコが首を押さえて曲げると、ぽきりと気持ちの良すぎる音が響いた。疲れてるんだなあと思うけれど、だからといって俺がしてやれることなんて特にはない。枕元に放り投げられたままになっている懐中時計に目をやると、起きるにはすこし早すぎた。
「もう1回寝るか?」
「いいや。便所行きてえし喉からからだし、何より風呂行きてえよい」
「それがいい」
俺は笑ってマルコの胸をとんと押した。マルコは小さく首を3回ほど振ると、あくびをして、靴を脱ぎにかかった。俺はベッドのこちら側にあったマルコのサンダルを彼の足元に置く。どうも、と俺の顔も見ずに言った彼は両手を挙げて伸びをしていた。あくびをして伸びをする。理想的な朝の風景だ。いかにも朝ですよってかんじ。そんなものを見せられたら俺だってもう起きるかという気分になる。
マルコのデスク上にあったクラッカーをさらりとかっさらって部屋を出る。おいこら、と呼び止める声が聞こえたけれど無視をして、俺はそれを食べながら外の風を浴びた。昨夜と変わらず風が強い。生臭いにおいがした。鮫か何かの集団か、手遅れだった難破船が近くにいるのかもしれない。
顔を洗って、着替えて、もういちど風を浴びようと自室を出ると通路に寄りかかったマルコがいた。彼はもう完璧な姿をしていた。そしてまだ開かれていない、折りたたまれたままの新聞を片手に煙草を吸っていた。俺を見ると新聞を脇に挟み、隣にどうぞ、と紳士的なジェスチャーをする。俺もふざけて紳士的なお辞儀を返して横に立った。
てっきり何か用があるのかと思ったのだけれど、マルコが何も言わないのでそろりと彼を見た。マルコもちょうどこちらのようすをうかがったところだったようで、ばっちり目が合ってしまった。マルコは気まずそうに視線を彷徨わせたあと、顔ごと目を逸らした。
「エース。昨夜は悪かったよい」
何に対しての謝罪だろうと訝しく思ったが、謝るマルコがちょっとだけ恥ずかしそうなので俺はすぐにその理由に思い当たる。男ならだれでも涙なんて見せたくない。そして責任感のひときわ強いこの男は、おそらくそんな部分を晒してしまったことをひどく後悔しているはずだ。俺にはわかる。俺とマルコは絶対的に違うけれど、それでも根本的にはよく似ている部分があった。
「いや…なんとなく、あんたが俺に言ったこと。わかった気がした」
風で顔を覆った髪を指先で払ってくれたマルコはひどく優しい顔をしていた。特に微笑んでいたりするわけではないのだけれど、その指先のやさしさと陽光のような瞳の細め方で彼の感情がどのように動いているのかおおまかに感じることはできる。
「あんたがあのとき、なんであんなふうに怒ったのかも。あらためて悪いな、俺、あんとき最低なことしちまった」
「わかったならいいって言ったろい」
「だから、改めてんだって。今度こそ身に染みてわかったから」
マルコはおもしろそうに眉をあげた。俺は自分から口にするのがおもしろくなくて手すりに腕を置き、口を隠すように頬杖をつく。自分がマルコの風下にいることに気付いたので、心持ち距離を取って彼の副流煙から逃げた。たいした意味はないけれど。気分の問題だ。
「俺はおまえが大切だから守りてえと思う。それに対しておまえはどうだ?」
「守られたくなんかねえ」
「それでいい。守られたいと思うのはただの我儘だ。無知で無力な子どもだ」
かん、かん、かああああん。
甲板から金樽を叩く音がする。この船の朝を告げる音だ。強い風でいつもより潮くさいけれど澄んでいるように感じる今朝の空気にはその音が気持ちよく響いた。
「それじゃあ聞くが、情けねえ俺を見てどう思った?」
「情けねえ」
「ぶん殴るぞ」
「はは。うそうそ」
太陽はちょうど、俺の左斜めの視界の端に浮かんでいる。マルコは俺の右隣にいるから、その反対側だ。俺は首をすこし曲げて、太陽のほうを見た。
頬杖をついていない右手で、左腕の刺青を握る。俺がいままでこの感情を抱いたのはこの世にふたりだけだった。そしてそのうちのひとりは失ってしまった。彼のことを思う。はっきりとはわからない。しかしなんとなく確信がある。家に帰らず森で眠っているとき、悪夢を見ると、ひどく不器用な手が俺を救ってくれた。俺が認識する中で初めてもらった愛はきっとあのときだ。
もう二度と不器用で優しくて愛おしいあの手を失いたくはない。
「あんたを守りたいと思った」
呟くように言うと、マルコは微笑んで、小さな声で言った。
「それが愛だ」
そろそろ吸い終わるというくらいまで短くなった煙草を、マルコは何の罪悪感もなしに床に放ってサンダルで踏みつけながら俺に手を伸ばす。普通だったらここで優しくロマンチックなキスでもくれるところだけれど、雰囲気をまったく無視して押し付けられた荒々しくて生々しいキスに、これだから海賊ってやつは、なんて呆れたふりをして、男同士でそんなもん必要ないかと笑い声を漏らして。シャワーを浴びたせいかほんのすこし中が湿っている痛んだ金髪を思いっきり引っ掴んだ。
11.09.22