ピスタチオの殻を放り投げた先にはマルコのグラディエーターがある。剥き出しの足に殻が乗ると、マルコは嫌そうにちょっと足をあげてそれを振り落とす。既に10分はこうしている。俺はピスタチオの殻を投げるのをやめないしマルコは黙ってそこを動かない。痺れを切らしたのは近くにいたサッチだった。つくづく面倒見がよくて運が悪い男。
「いい加減にしろエース!ステファンが食ったら危ないだろ!」
しゃがみこんだまま、うさぎ跳びでピスタチオの殻を拾い集めるサッチを見つめている間も俺もマルコも何も言わない。俺はつんと唇を尖らせて、マルコはぐっと唇を曲げていた。
緩く潮風が吹く。ひどく穏やかだ。それは何も運びはしない。
「鳥に餌やってんだよ悪いかよ」
潮風に煽られて頬にかかる髪を振り払った瞬間目に入った、雲のない空は俺を呆れさせた。何が楽しくてこんなに天気のいい日に俺はマルコに向かってピスタチオの殻を投げることで時間を潰しているんだ?
「くだらねえ。やーめた」
俺はううん、と伸びをして立ち上がる。肩と首を軽くまわして強張りを整えるとすこし気分が晴れた気がした。
「マルコ、ナッツ食う?」
「もらうよい」
「そこ置いておくから、食っていいぜ」
「こら、エース!殻片付けて行け!」
サッチの声には満面の笑顔だけ向けておいて、俺はデッキを後にした。
別に拗ねているわけではない。朝いつものようにマルコを起こしに行ったら彼は既にタオルを持って洗面所へ向かった後で、だからそれが何だというのだ。今までもたまにマルコが起きていることがあった。マルコだって毎日起きられないわけじゃない。けれど、夜にあんなことがあったばかりだから、なんだか故意に避けられたみたいでおもしろくなかったのだ。
いや、違うな、と俺は思う。壁に寄りかかり木目を撫でる。指に棘が刺さった。俺はぼんやりそれを見つめて、すこしだけ伸びすぎてしまっている爪をピンセット代わりにそれを抜く。存外大きかったそれは簡単に抜くことができた。血は出なかったが、かすかに痛みが残るその指をくわえると、ナッツにかかっていた塩の味がした。
目が覚めると、マルコがなだめるみたいに俺の太ももを優しく叩いている。子どもを寝かしつけるみたいな絶妙な力加減で、左手には本を持ち、視線はその文字列を追っている。
「マルコ」
俺は慌てて起き上がる。マルコを待っている間にうたた寝をしてしまったようで、そして俺に触れる手つきは覚えのありすぎるものだった。自分の顔が真っ青になるのがわかる。冷や汗すら出やしない。
ひたすらきりの良いところまで文字を追っていたマルコがふと視線をこちらに流す。そしてこちらがびっくりしてしまうほどに、ひどく驚いた顔をした。マルコの左手から本が滑り落ち、大きな音を立てた。マルコの顔が一瞬ものすごく歪み、彼は舌打ちをした。落とした本が足を直撃したのだろうことは彼の舌打ちをしたままで固められた唇の形でわかる。
俺の頭はひどく混乱していて、しかし人間というものはそういうとき、どうでもいいことを考えられるような空白ができる。感情の中心は竜巻で、その中はカオスで、しかし狭い脳の中でも竜巻が動けるように空いた隙間。すべてを竜巻に持ってかれてしまっているから、その隙間はひたすらに無感情に第三者として脳に伝わる出来事を見つめる。それはありのままの事実しか認識しない。だから俺はマルコがどうしてそんなに驚いたのかなんて考える由もなかったのだ。あとから冷静に考えればわかる。俺がそれだけひどい顔をしていたのだということ。しかしそのときはそんなことに気付く余裕もないから、余計に混乱してしまって、状況をさらに悪化させてしまうものだ。
「どうした、エース、おい、落ち着け」
「なんで、だって、俺、夢なんて見てねえ、覚えてねえ」
「大丈夫、おまえはただ寝ていただけだから。な?落ち着け」
「夢なんて、見てない」
「ああそうだ。見てねえ。眠っていただけだ」
マルコは俺の額にそっと触れ、髪をかき分け、そこにキスをした。彼の唇はひどく優しくて、じょうずに泡立てた石鹸のようにふわりとした感触を残す。距離の近づいたマルコの体からは煙草のにおいがしたけれど、常であれば不快なはずのその香りは水面に落ちた葉の描く緩く微かな放射線状の波のように俺の心を落ち着かせた。
「…落ち着いたか?」
マルコを見つめる俺の瞳が、吐く息が、ひとつの乱れもないことに気付いたのだろう。マルコは大きく鼻から息を吐き、安心したみたいに悲しげに微笑んで俺の胸を叩いた。俺は返事をするかわりにちょっぴり顎をひいて体を捩った。マルコは笑った。
「悪い。取り乱した。焦っちまって」
「どうして焦る必要がある?」
「だって、あんたに弱いところばかり見せる。こんなのは甘えだ」
マルコはすっと目を細めて、俺の体をまんべんなく見回した。足首から太ももまで撫で上げ、そのまま俺の足を軽く持ち上げて端に退かす。そして空いたスペースに乗り上げて、俺に背を向けるみたいに座った。煙草をくわえたので、火でもやろうかと腕を上げかけたが、それよりも早くマッチを擦る音がした。この音は心地良い。俺はおとなしく腕をおろす。マルコは肩ごしにそんな俺のようすを見つめると、火をつけたばかりの煙草を無理やり俺の唇にねじ込んで腰を浮かせた。彼が長い腕を伸ばした先には酒瓶があった。
「風呂入る前に飲むと酔いがまわるぜ」
「…入ったよい」
「嘘つけ。あんた、いちにちぶんの煙草のにおいがする」
俺がマルコの腰を拳でつつくと、彼は俺の鼻をつまんだ。突然のことに俺の鼻が鳴ったのを聞いてマルコはまたいたずらに笑う。そして酒瓶に口をつけると、今度は俺の指先から煙草を奪った。まったく、俺は灰皿じゃないというのに。
「弱いところを隠そうとするな。恥ずかしいことじゃねえ」
そう言ったマルコの横顔は何かに似ていた。正確にはその横顔の造形ではなく、そう呟くマルコの形成する蕪雑な宥恕が。それは何だっただろうか。縹渺とした既視感が思考に塵芥を散らす。それはとても大切なもので、大切な瞬間だったはずだ。
「だけど昨夜のおまえの甘え方は最悪だったよい。自分でわかってんだろ」
「ごめん」
「甘えるのはいい。だが、自分だけ楽になろうとはするな。そんなのは押し付けだ。どうせなら全部見せろ。そうしたら俺はおまえを受け入れてやる」
ありがとう、と俺は声に出さずに唇だけで紡ぐ。マルコは人差し指で俺の唇を撫でた。かさついているのは俺の唇なのか、彼の指なのかもわからない。
「覚悟ができたらまた誘えよい。楽にしてやる」
その言葉を聞いて俺が想像したのは、劇薬の注射器を構えた白衣姿のマルコだった。
11.09.19