時々夢を見る。同じ夢だ。内容はまったく覚えていないけれど、同じ夢だということが俺にはわかる。その夢は生臭いにおいがする。腐った水の入ったドラム缶の苔と錆と害虫のにおい。目が覚めると口の中には胃液の味が残っていて、体はじっとりと汗ばんでいるのに唇はからからに渇いている。
意識が浮上する。いつものように鼻にはいやなにおいが残っているし胃液のせり上がる感覚があった。体も不快に湿っている。しかしそれなのに、いつもみたいに死にたくなるほどの自己嫌悪を感じない。
髪を撫でつけ、額の汗を拭う掌のぬくもりにそっと触れる。俺はその手に驚かなかったし、手の主も俺が触れたことに驚かなかった。
サボ、と声を出さずに呼んでみる。唇を動かすだけにとどめたのは、男がサボではないことを知っているからだ。彼の手はこんなに大きくなかったし、彼の手はこんなに優しくもなかった。
「マルコ」
目を閉じたまま隣人の名を呼ぶと、ゆっくりと髪を撫でつけていてくれた大きな手のペースが乱れた。俺は彼の動揺がおかしくて、ふふ、と息を漏らすように小さく笑う。いつかのように額をぺちんとやられるかと思ったが、男はそのまま俺の髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳きはじめた。すると俺の髪から汗が香った。頭皮を汗が伝って流れていくのがわかる。
目を開けると、無表情ながらやわらかい視線で俺を見下ろすマルコがいた。彼はベッドではなく、デスクチェアに腰掛けていた。マルコの視線のやわらかさは秋冬の夕焼けを思わせた。朝焼けでも、春夏でもない。その視線は朝焼けのような行動を促す意味を含まないし、あたたかさもなかった。どちらかといえば休息を促し、寒い日のつんとした空気を思わせた。
視線を外すと、マルコは髪を愛撫するのをやめて俺の肩を数回ぽんぽんと叩き、煙草を吸った。組んだ足に肘を置き、猫背になって気だるそうにするさまはとてもマルコという男に似合っていた。
「安心しろ。ちゃんと、声は上げてなかったよい」
俺は赤くなった。
夢を見たとき、俺がいちばん心配していることを的確にフォローされて、情けなさと恥ずかしさで普段とは違った種類の自己嫌悪に陥る。
そうして俺はまた余計なことを口にするのだ。
「じゃあ、なんで来てくれたわけ」
「暴れた音がしたから」
マルコは顎でベッドの逆サイドを指した。オイルランプが見事に割れていた。
「ああ、ちくしょう。やっちまった」
「おまえの部屋が火事になったら俺が危ねえ」
「不死鳥のくせに」
「俺の部屋には大事なもんがいっぱいあるんだよい」
ずずっと鼻をすすって改めて認識すれば、若干こげくさかった。ランプを割ったとき、怪我をしないように無意識に手を炎にしていたのかもしれない。
「俺ってタチ悪いな」
自分に呆れたことを示すみたいに、寝転がったまま天井に向かって両手を広げると、マルコが笑ったのがわかった。
そのまましばらく俺たちは黙っていた。俺はすこし疲れてしまっていた。夢を見たときはいつも声を出さずに叫ぶから、喉の奥が強く痛む。声枯れしたときや風邪をひいたときの、薔薇の棘みたいにちいさくちくちくする痛みではなく、筋肉痛に近い慢性的な痛みの持続。
マルコはもう俺に用はないはずだったが、特に出ていくタイミングを伺うようなそぶりも見せず、当たり前のようにそこにいた。俺はこういうときひとりになりたいタイプだったけれど、マルコのことはまったく気にならなかった。
嫌ではないとか、いてほしいとか、そういうことではないのだ。マルコは紫陽花の葉の朝露のようなものであり、朝日を浴びて屋根から落ちた夜中に積もった雪の音のようなものであり、起床してベッドから足をおろしたときの床板の軋みのようなものだった。それらは常に見られるものではない。しかし気付くとそこにある。日常の中の自然に溶け込んだとくべつ。
俺は額に腕を乗せて影をつくり、煙草を吸い続けるマルコをそっと眺めた。悪夢にうなされているところを助けられるなんて、本来ならば俺の高すぎるプライドが許さないところなのだけど、マルコならいいかと諦めている自分がいる。へんなかんじだ。数日前まで特に親しくもなかったのに。まあ、面倒はすごくよく見てくれていたけれど、それは事務的というかなんというか。断じて心をひけらかすような関係ではなかったはずだ。
「エース」
「ん?」
マルコが俺の手を握り、額に乗せていた腕をゆっくりと持ち上げた。俺は身を任せる。遮る影がなくなったことでマルコの顔がよく見える。彼の顔はいつも同じだ。常に眠たげなくせに徹夜をしたとしてもその疲れを顔には出さず、髭は常に一定の長さを保っている。
「もう1回寝ちまえ」
「…ああ、うん。…いや、眠くねえ」
俺はマルコの首に腕を回して、彼の顔を引き寄せるように力を入れた。マルコは一瞬驚いたように唇を開き、喉に何かが詰まったような妙な声を出したが、何も言わずにベッドに手をついた。そして俺の耳に唇を寄せる。
「どうした?」
「言わなきゃわかんねえか」
マルコの顔は見えないが息遣いははっきりと伝わる。溜息とまではいかずとも、彼はふうと息を吐いた。それは呆れよりも覚悟よりも、何より困っているように感じた。
「エース」
首筋にキスをおとすと、咎めるように俺の名を呼ぶその声に焦りが滲む。それにほっとするくらいには俺のほうが焦っていた。ひいたはずの汗がまたじんわりと浮かんでくるのがわかった。ここで離したらすべてが終わる。
「なあ、マルコ。俺あんたになら全部見せてもいい。見てほしいんだ、ぜんぶ。だからマルコ、なあ」
言いながら、自分が失敗をおかしたことには気づいていた。しかしもうどうにもならなかったのだ。耳元で舌打ちが響いた。それは俺の鼓膜を揺らしたけれど、感情には何も響かなかった。無感動な音楽。俺には数秒前からこうなることがわかっていた。
「甘えてんじゃねえぞ」
マルコは自分の体と俺の体の間に腕を入れて、肘で俺を押し返した。もはや力などまるで入っていなかった俺の体は簡単に離れる。
向かい合ったマルコの顔は無表情だった。そしてマルコから見る俺の顔も無表情だったに違いない。彼は数秒間動かずに俺を見つめたあと、何も言わずに出て行った。ドアは半開きだ。あの野郎。俺は立ち上がりかけたが、隣室のドアが閉められる音がしたのでまあいいかと放っておいた。ここを通るのはマルコしかいない。
俺はベッドに腰掛けたまま枕元に置かれたマルコの煙草を手に取った。1本手に取り、くわえ、小指で火をつける。やっぱりこの部屋はこげくさい。
顎をあげて天井に向かって煙を吐き、このままぼんやりと朝を待つことにする。
「暑い」
口に出したら首筋を汗が伝った。やっぱり俺は、どうしたって余計なことを言ってしまうのだ。
11.09.09