俺の部屋にはランプが灯っていたが、マルコはいなかった。シーツはしっかりと折り目がついていた。新品らしい。やはり少々かびくさくはあったけれどしみひとつなく真っ白なそれは清潔そうで、俺はちょっと嬉しくなった。こんな生活をしていると、新品のものがまわってくる確率というのはそんなに高くないからだ。
俺はシーツを撫でて満足するとそこにリュックを放り、酒瓶を抱えてランプを消した。マルコの部屋の扉は閉まっているが隙間から明かりが漏れている。漏れた光はおとぎ話のようにあたたかで、俺は頬の筋肉が緩むのを自覚した。
「マルコ」
普通に名前を呼んでみただけなのだけれど、その声は存外大きく響く。やはりここは静かだ。波の音がひどく穏やかに聞こえた。
ドアが開く。
マルコは眼鏡をかけて右手にはペンを持ったままだったけれど、俺の顔と抱えた酒瓶を交互に見つめるとふっと肩の力を抜いた。
「悪い、仕事してた?」
「いや、たいしたことじゃねえ。入れよい。酒寄越せ」
マルコの部屋は正直に言って汚かった。とにかくものが多い。床に積まれた本のタワーのてっぺんには吸殻がまんたんに入った灰皿が置いてあるし、酒瓶は直接床に置かれている。デスクの端に積まれた書類に遮られ、デスクそのものがどうなっているかここからではまったく見えない。俺の部屋の、価値があるという棚が置かれていた場所には本棚があり、ぎっちり隙間なく本が押し込められていた。ベッドの上、枕を挟むようにして左右にまたファイルや本が重なっている。
「あんたの部屋汚すぎねえ?」
「うるせえよい。これでもいちおう片付いてんだ。だがどうにも本が多すぎて収拾がつかねえ」
そう言うからにはさぞ有益な本なのだろうと、本棚に近づいてそのタイトルを走り読んでみる。
経済学、化学、医療、航海術、難しくてタイトルさえ満足に読めない。俺は顔を顰めて小さく首を振り、1段上も走り読んでみる。
石器時代の生活、恐竜図鑑、パンのつくりかた、聞いたこともない作家の詩集、地底都市伝説。
「なあマルコ。この本必要?」
俺がたずねるとマルコは眉間に皺を寄せ、眼鏡を額まで押し上げた。そうしながらのそのそと寄ってきて、俺の肩に手を置き、俺の指の先を見る。俺が指したのはパンのつくりかたの本だった。どうがんばってもこの男がパン生地をこねる姿など想像ができない。
「なんだこれ。いらねえよい。…その隣もいらねえな」
「詩集」
「詩なんて読まねえ」
「虫の生態」
「どうでもいい」
「いらねえ本ばっかじゃねえか」
マルコがいらないと言った本を片っ端から腕に抱えていた俺は抱えきれなくなってそれらをベッドに放り投げた。
「いくら要らねえもんでも本は大切に扱えよい」
「灰皿の台にしてるあんたにゃ言われたくねえな」
マルコは両手を広げて、下唇を上唇に乗せると、はいはいと仕方なさそうに椅子に腰かけて煙草を手に取った。俺は呆れた。そして俺が座る場所などどこにもないことに気が付いた。仕方がないので先ほど俺が投げ散らかした本を端に寄せてベッドに座る。マルコのベッドは俺のベッドよりすこし固いように感じた。
よく眺めまわしてみると、部屋はものが溢れて乱雑だが、衣類の管理はしっかりしているようだった。サッチの部屋みたいに、マットレスの下から脱ぎ捨てられた靴下がはみ出しているということもないし、それらはしっかり収納されているようだ。要らない本だけ片付ければずいぶんきれいになるはずだ。
「マルコ、シーツの御礼にあんたの本の整理手伝ってやるよ」
「…隣が静かすぎると思ってたが、今度はうるさすぎるのが来ちまったよい」
「失礼だな」
マルコに酒瓶を1本渡すのと交換で煙草を1本もらった。喫煙者はたくさんいるが、隊長連中の中でもフィルターつきの煙草を吸うのはマルコとサッチだけなので、俺は彼らからしかそれを受け取らない。両切りじゃあどうにも噎せるし、葉巻なんて論外だし、パイプを愛用する奴らはくれようともしない。マルコは惰性で吸っているがもともとそんなに煙草が好きなわけではないと言い、サッチはむかし胃をおかしくしたのだと言った。
俺は右手の小指を炎に変えて火をつけた。人差し指では火力が強すぎてしまうので、いつも小指を使うようにしている。
「明日晴れたら、手伝ってやるからな」
「俺は不便してねえよい。どうしてそんなに捨てたがる?」
どきりとした。思わずあからさまに目を逸らしてしまって、自分のとったその態度に動揺する。
俺の根底には死の概念があり父親への憎しみがあり弟への希望があった。俺は自分のそんな一種不条理な部分など知られたくはなかった。俺はゴール・D・エースでもポートガス・D・エースでもなく、火拳のエースでいたかったのだ。この船にいる間だけは。
はっとして慌ててマルコを見ると、マルコは何も言わず、ただ酒瓶をあおりながら穏やかな水面と雲から見え隠れする月の景色を眺めていた。それがマルコなりの気の遣い方であることに気付いてしまって、俺はちょっぴりいたたまれなくなる。しかし今はマルコの選んだその方法が嬉しかった。今追及されても、俺はそれをうまく表現する言葉も手段も持っていない。おそらくマルコはそのことにも気付いて、考慮してくれた。そういう男だ。そういう男でなければ、この大所帯であたま16人のひとりを務めることなんてできやしない。
礼を言いたかった。けれどここで礼を言ったら台無しなこともわかっていた。
「身軽でいたいんだよ、俺は」
そう言って笑うのが俺の精一杯だった。軽く言って、不自然な空気をどうにかしようとしただけだったのだけれど、どうやらそれが失敗だったと気が付いたのはマルコが横目でこちらに視線を寄越したときだ。彼の目はひどく重苦しい色をしていた。水底に沈む鉛玉みたいに。
俺は頭を掻いた。
「また失敗だ。俺はいつも余計なことを言っちまう」
そう言って両手を挙げたら、マルコは一変して、喉を仰け反らせて笑った。
11.08.20