部屋にはランプのオイルをこぼしてしまったけれど窓を閉め切りにしたときのような古臭いにおいが充満し、また窓は立てつけが悪く半分しか開かなかった。部屋の隅に備え付けられたドレッサーのスツールからは化粧の粉っぽい香りがする。天井には雨漏りのあとのようなしみがあり、壁紙は何度か貼りなおされたような天井や床との不一致感と分厚さがある。
シーツだけは新品みたいにきれいだ。ベッドのスプリングは潰れてしまって音を立てもしない。ベッドサイドにはアンティーク調の趣味の良いランプが置かれている。
部屋は最悪だが、ベッドだけは最高。そんな宿で俺とエースは寝た。

酔いにまかせるにはふたりとも量が足りていなかったし、言い訳をするには瞳に、吐息に、指先に、熱がこもりすぎていた。
俺が素っ裸でベッドに仰向けに倒れると同時に、エースはむくりと起き上がって力任せにシーツを引っ張った。俺まで連れて行かれそうになり、俺は器用に体を浮かせなければならなかった。
エースはそうやって無理やりベッドから剥いだシーツを肩に掛け、前で合わせてその肌をすっぽり覆い隠す。

「寝てろよ。俺は戻るから」

「シーツ返せよい」

「どうせすぐシャワー浴びんのに服着るのめんどくせえよ」

エースは短く笑って体に巻いたシーツの裾を翻し、ハーフパンツと下着とシャツを拾った。そしてちょっと考えたあと、ブーツも拾った。
シャワーならここで浴びればいいし、眠るならここで眠ればいい。俺はそう提案したい気持ちを押し隠す。そして言わなくてよかったと心底思う。
エースは部屋を出る直前、半分だけ振り向いて言ったのだった。

「俺はあんたを愛してるけど、好きにはならねえよ」

純粋すぎる満面の笑みだった。おかげで俺は彼が去ったあと、眠気がやってくるまで、ひたすら彼の言う愛と好きの定義について考えなければならなかった。
煙草を4本吸うあいだに出した結論がある。いうなればこうだ。
俺は犬が好きだ。そりゃあもう大好きだ。これは愛だ。俺は愛犬家なのだ。大好きすぎて飼っている。どちらかといえば小型犬が好きで、その中でも毛色が2色で(ブラウンならばさらにいい)、毛並みは長め、しかしさほど手がかからず、性格はすこしうるさいくらいがばかっぽくてかわいい。体は丈夫で、体重は長く抱っこしていても疲れない5キロ前後がちょうどいい。というわけで、俺はテリアを飼っている。しかしテリアでなければならない理由はない。

「うちの船はペットショップじゃねえぞこのクソガキ!」

「うるっせえよマルコ!何の話だ!」

苛立ちに任せて壁を蹴りつけると隣の部屋から怒鳴り声と壁を蹴り返す音がした。それだけで終わるはずもなく結局真夜中にふたりして宿を追い出されるはめになったのだけれど、さてどうしようかと宿の前で立ち尽くしているときにエースの呟いた、「モビーに動物はあんただけだろう」の一言で何もかもがどうでもよくなってしまって、ふたり並んで船に引き返したのだった。



それが前の島に立ち寄ったときの出来事だ。
隊長たちの中でも特に俺とエースは海に焦がれながらも陸を好む傾向にあった。どんなに海に憧れたって、陸に産み落とされたときの人間の本能と言うものはその血肉に、脳みそに、岩礁の藻屑のように根強くこびりついて離れない。俺たちふたりは陸から海を眺めることも好きだったし、フットワークも軽いほうだった。
情けない話だが、俺はもう一度エースを欲したが、求めることなんてできやしなかった。そして次の上陸を待っている。僅かな期待を抱きつつ、コーヒーを飲んで新聞を読みながら。



傘というものに触れたのはとても久しぶりな気がする。
手がふさがるのは好きではないし、何より雨が好きじゃないから、出先で雲行きがあやしくなりだしたらなるべく室内にいるし、また雨にほとんどあたらず移動できるような店の連なった通りを選ぶ。船にいるときに降り出したら、当然動かない。

「マルコ、雨だ。久しぶりだな」

「ああ」

「なに?今回は上陸しねえの?」

「おめえはすんのかい。この雨の中?」

「するよ」

そう言ってエースは持っていた傘で床をとんとん叩いた。鼻歌でも歌って踊りだしそうなくらいの上機嫌だ。エースは怪我人みたいに、傘を杖代わりにしてのそのそと歩み寄ってくる。左手に持っている傘はすこし錆びていて、右手に持っている傘はすこし曲がっていた。どっちもどっちだな、と俺は思う。

「マルコ、真っ先に出ていくと思ったけど」

「ガキと一緒にすんじゃあねえよい。確かにこの島は魅力的だがなあ」

天候が悪すぎる。そう示すみたいに中指の背で窓をこつんと叩いた。エースは苦笑して頭を掻いた。

「まあ、そうか。紙は湿気に弱えもんな」

俺はふと、噛みあっているようでいて微妙に会話が噛みあっていなかったことにここで初めて気が付いた。
俺は特に読書家というほど多くの本を読んだりしないが、それでも読書は好きだった。しかし寝る前くらいにしか読む時間もないので1冊の本を読むペースはたいへん遅い。だから3回上陸するうちの1回くらいのペースで書店に寄ればじゅうぶんだった。俺はその1回で2、3冊気になった本を買っておけば、また航海2回分は本に不自由することはない。
しかし今回はすこし早めに読み終えてしまい、ここ一週間程度はどうにも手持無沙汰な夜を過ごしていた。習慣というものはなかなか抜けない。俺はすこしでも寝る前に眼球に文字を映さないとどうにも眠るタイミングがつかめなくなってしまうのだった。
そして運よくこの島はなかなかに学問が発達しているというわけで、大きな書店にも巡り合えそうだと思っていたところなんだけれど。
よくわかったな、だとか、どうしてわかったんだ、など聞きたい気持ちはあったけれど、エースはそれらを笑ってかわすことを俺は知っている。エースはたいていの質問に答えない。にやりと笑ってやりすごすか、からから笑って吹き飛ばすかだ。この船にいる誰ひとり、未だ彼の内面に入り込むことを許されていないような気さえする。

「じゃあ俺も船出んの明日にすっかなあ」

「なんでだよい」

エースは驚いたように俺を見て、すぐに反応を返せなかったことをまずいと思ったのか、あからさまにしまったというように顔を歪めた。
俺は頭を抱えたくなる。
嘘をつけ、何が「好きになんねえよ」だ。おまえだって期待していたんじゃないか。やんちゃなくせして根っからストイックなこの男が2度目を渇望するならば、それはそういうことではないのか。
普段の俺ならばここでこのままエースを追い詰め、そしてずるいくらいに威圧的に彼を求めるのだろう。俺はそのようすを鮮明に思い描くことができたし、頭の中ではシュミレーションさえ仕上がっている。
しかしエースは笑うのだ。

「だって雨の中ひとりだなんてつまんねえだろう」

やーめた。というように、エースは傘を2本とも放り投げる。
俺は彼に対して臆病になっているわけではない。俺はそこまで男を捨てているわけじゃあない。しかしどうにもエースの笑顔に弱すぎる、その拒むような笑顔、それを向けられている限り俺はなんにもできやしない。
エースに拒まれるのが怖いんじゃない。なぜならここで強引に出たって、最後には彼は嫌がらないことを、彼と繋がれることを俺は確信している。ただ俺は、彼の嫌がることをするのがいやなのだ。彼の張っている脆い壁を打ち壊すことは容易いが、できれば自分から出てきてほしい。俺がそれを壊すなら、空いた穴のまわりはひび割れ、破片が飛び散り、きっとどちらも多少なりとも怪我をする。しかしエースが腰のナイフできれいに扉型の穴を空けたなら。
ああ、すべては言い訳だ。こんなに情けない自分は知らない。
俺は結局、エースに求められたいだけだった。

「いてえ!なんだよマルコ!」

傘でエースの尻を叩くと彼はおもしろいくらい飛び上がった。完全に意識をどこかにやっていたらしい。何を考えていたのか、そんなものは明白だ。俺のことだろう、なあエース。

「気が変わった。出かけるよい。おまえも行くだろ?」

はやくおまえに好きだと言いたい。



ヨーウィの運ぶその胸中を






11.08.11




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