エースから初めての手紙が送られてきたのは、彼が去ってから半年が経った頃だった。

彼と過ごしたあのとき、俺は軽い上着を羽織っていて天気が悪い夜にはストーブをつける日もあった。上着の要らない季節を通り越し、今はまた薄手の上着を傍らに置いている。
本はまだ完成していない。数週間で1冊仕上げる作家もいれば、数年かけて1冊仕上げる作家もいる。俺はだいたい半年以内に仕上げるくらいの執筆速度だったので、今回はいつもどおりか、すこし時間がかかっているくらいかもしれない。
エースがいなくなってから、俺はひたすら仕事をした。最初の1週間くらいは、情けない話だが――ほとんど何も手につかず、彼が傍にいたときと変わらぬくらいしか筆は進んでいなかったが、俺はふと思い立ち、街でかんたんな額縁を買った。エースの絵を飾るためだ。豪華な額縁ではスケッチ画には不釣り合いだったし、なによりエースの本意ではないと思ったので、店で3番目くらいに安いものを買った。1番安いものはサイズが小さすぎたし、2番目に安いものはプラスチック製で俺の部屋には合いそうもなかったからだ。
見慣れた景色、彼と待ち合わせた橋の風景、なによりそこに描かれたテンガロンハットが彼が存在した証のように思えた。エースの絵を見たのは初めてだったが、今までに彼の絵を手に入れた人間すべてに嫉妬したくらいだった。


本当だったらポーチで手紙を開けたいところだったが、あいにく今日は雨だったので、俺はしばらくうろうろしたあとエースにもらったペーパーナイフを持って2階にあがり、ベッドに腰掛けた。
手紙の開封には慣れたものなのでさくりときれいに封を開けることができたが、その手が微かに震えているのを見ると苦笑いすら浮かばない。俺は自分に呆れはて、溜息をつく。そして思い切り息を吸い、深呼吸してから封筒の中に指を突っ込んだ。

“俺は読むのは好きだけど、正直言うと、書くのはぜんぜん得意じゃない”

エースの手紙はその1行で終わっていた。たしかに文字を書く機会などなかったのだろうなと思わせるほどその字はへたくそだったし、意味は通じるがスペルは間違っていた。俺は「あんたが恋しくなったら手紙を書くよ」と言ったエースの顔を思い出して、恋しくなった、その結果がこれか?と拍子抜けせざるを得なかったが、それが何よりエースらしくて、思わず声を出して笑ってしまった。
しかし彼からこちらに連絡を寄越すことはできてもこちらからは何もすることができないのだから、もうすこし何かあってもいいんじゃないだろうか。俺の思考が甘すぎるのだろうか。それでも一抹の期待を抱いて封筒をのぞくと、もう1枚紙が入っていた。俺の心臓はわかりやすく跳ねる。俺の手も、さきほどよりずいぶんわかりやすく震えている。

入っていたのは1枚の絵だった。
特に何かをしているわけでも、何かを持っているわけでもない。ただ、男の手だけが描かれていた。

最後の夜を思い出す。
エースは行為を終えたあと、俺の手首を掴み、自身の頬に押し当て、指を舐め、てのひらにキスをした。

「あんたの手が好き」

と彼は言った。

「俺の髪を撫でる手のひらも、顎をなぞる指先も、頬を撫でる手の甲も、愛撫するときのあたたかさも、全部好き」

「やけに素直じゃねえかい」

「かわいいだろ?」

「黙れよい」

「はは。でも、俺、たぶんマルコのことを思い出すとき、真っ先に浮かぶのはこの手なんだよ」

その次はこの瞳かな、と言って瞼に落とされたキスの感覚を思い出し、俺は目を瞑り、手のひらで押さえた。

俺の手が好きだと言ったエース、人物は描かないと言い切っていたエース。

「ひでえ男だよい」

呟いた声は掠れ、響くことなく霧散する。呼吸が浅くなるくらい、エースが恋しかった。





「よ、マルコ。おつかれさん」

仕上がった、と連絡を入れれば、2時間後にはサッチが訪れた。この男は仕事の打ち合わせには絶対遅れないし、今のように仕上がればすぐに飛んでくる。それらの行為は彼が俺の作品を大切に扱ってくれていることが伝わってきて、俺はどうにも照れくさいのだけど、この男とは一生つるんでいるのだろうなと思わせる。
サッチはコートを着ていた。俺は家にいたからコートこそ着ていないが、寒さに弱いので見事に着膨れしている。毎冬のことなのでサッチは俺の間抜けなかっこうを見ても今更何も言わない。
今はもう、冬のはじまりだった。俺にしては時間がかかってしまったけど、サッチがいろいろと調整に走ってくれたおかげでこの原稿を手渡せばいちおうの仕事は終わりになる。
サッチがぱらぱらと原稿をめくる間、俺はコーヒーを入れて灰皿の中身を空にした。原稿をしまうまでサッチが煙草にもコーヒーにも手を付けないことは知っていたけれど、俺がコーヒーを飲みたかったし煙草を吸いたかったのだ。

「結局使わなかったのか」

「何を」

「エースの絵だよ」

書斎に飾られた絵を見たサッチが、本の最初か最後に挿入してみたらどうかと提案したのはずっと前、一度きりだ。エースの絵はとても雰囲気があったので、良い効果になると俺も思ったが、どうしても使いたくはなかった。

「言ったろい。あいつの絵はあいつの目そのものだ。それを知るのは俺だけでいい」

「ああ、はいはい」

抜けているページがないか、左下に振った番号をひとしきり確認し終えたサッチは最後のページを見つめ、俺に視線を送ると微笑んだ。

「あいつ、1回手紙送ってきたっきりなんだろ?何してんだろうなあ」

「さあな。たぶん、相変わらずだろい」

「違いねえ」

俺たちはしばらく無言のまま煙草を吸った。
この原稿が世に出れば、いや、サッチの手に渡った時点でエースの一部は俺だけのものではなくなってしまった。すこし寂しい。しかし満足感と、わずかな脱力感がある。
今夜は眠ろう。生活をもとに戻すのだ。朝のやわらかな日差しの中で目覚め、ふくろうが鳴くのと入れ替わりに眠りにつく。
そうしてまた、日常が始まる。









おまえがこの手を好きだと言ったその表情を思い出す。ランプの光がその瞳にビロードのようにやわらかな揺らめきを与え、容器から溢れ出る水にように自然に薄い唇が弧を描く。その表情は、噎せかえるほどの甘さを秘めているのに、元来その顔立ちに浮かぶ無垢な雰囲気が中和して、ラベンダー畑にいるような心地よい爽快感をにおわせる。
この指先が、手のひらが与える体温をおまえはまだ覚えているだろうか。

トロヴァトーレの花、許されるのならもう一度、その馥郁たる生の香りを。



トロヴァトーレの花









11.07.20



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