別れの言葉は単純だった。

「コーヒー飲みてえな」

俺がそう言うと、マルコはたっぷり10秒ほど俺を凝視したあと、仕方がねえなと書斎をあとにした。それを見送って、俺も書斎を出た。

ポーチに出ると、いつもマルコが座っていたロッキングチェアは風に揺られている。そのようすは先ほどまで誰かが座っていたのだという気配が感じられて、俺は思わず手を伸ばす。柔らかな日差しをたっぷり浴びた木目はあたたかさを持っていて、それがまた誰かの温もりを思わせた。
誰かと言ったって、俺にはマルコしかいないのだけれど。

庭のビニールプールに投げ込まれた電話機はそのままで、風に飛ばされて散った吸殻もそのままだった。マルコはこれらをいつ片付けるつもりなのだろうか。


道へ出るまでに通らなければならない森林はざわざわと涼しげな音を立て、このところ大した雨も降っていないというのにいつでも水かさいっぱいの川からは相変わらず水の生々しさと美しさがにおい立つ。
橋へ出るまで、俺はほとんど何も考えず無心に歩いていた。この先どこへ行こうかとか、いろいろ考えるべきことはあるのだけど、何も考えられなかったのだ。俺はただ呆けていた。失ったものの大きさがわからないほど馬鹿じゃあなかった。俺は、俺を保っている。しかしその他すべてを失ったのだ。
しかし俺はまた、それらを失ったことを後悔するほど馬鹿でもなかった。俺が守るべきは俺であり、俺が俺である限りまたそれらを手に入れることはできる。大切なのは俺らしくいられる、その1点のみである。選手は自分らしいプレーができる場所を探して、チームを捨て、仲間を捨て、ファンを捨てて移籍市場に身を投じるのだ。

橋に着くと、俺はいつもマルコを待った場所で立ち止まる。
待ち合わせるのはたいてい夕方だった。真昼間、意外と車や人の通りは多くない。ほとんどの人は出社を終えてしまっているし、もうとっくにランチの時間を迎えている。
俺はその場に座り込み、スケッチブックを広げた。





この1週間ランチをほとんどこの店で取っていたから、ジョズはいつものように俺を黙って迎えてくれた。店の前には相変わらずたくさんのトレーラーが止まっている。どれか南部に向かいそうな車はないかと視線を向けて物色してみるけれど、どれもそれほどの長旅をしそうには見えなかった。

「エース。どうした?座らないのか」

毎朝朝食のデリバリーを頼んでいるから、贔屓にしてもらっている礼だといってジョズは毎回サービスでコーラを1瓶くれる。今もそれをくれようとして、しかし俺がいつになってもカウンターにつこうとしないので手持無沙汰になっていた。俺は苦笑する。

「ああ、いいんだ今日は。テイクアウトにしてもらえるか?チキンサンドとターキーサンド、あと…時間置いてもうまいやつ」

「ドーナツとスコーンでどうだ?」

「チップスも!」

「わかった。ちょっと待ってろ」

キッチンに引っ込む前にちらと振り向いたジョズがカウンターを指したので、俺はおとなしく座って待つことにする。するとジョズがいつもどおりコカ・コーラを置いてくれた。俺がグラスを使わないことを知っているけれど、それでも彼は隣にグラスを並べて置く。
俺はほとんど埋まったスケッチブックをカウンターの上に置いた。とりあえず先にターキーサンドとチキンサンドを包んでくれたジョズに声をかけて呼び止める。

「マルコとは付き合い長いんだろ?」

「長いというか…まあ、短くはないな」

「この中からマルコが好きそうな絵、ひとつ選んで」

俺は結局マルコに自分の絵を見せずじまいだったことに気が付いた。スケッチブックは俺が描きたいと思ったものばかりだけれど、1枚くらいはマルコの趣味に合いそうなものがあるかもしれない。
ジョズは困ったように俺を見たが、俺が真剣なのがわかるとダスターで手を拭いてスケッチブックを受け取ってくれた。彼は1枚の絵を見るのにすごく時間をかけた。俺はそれが嬉しかった。店にはたくさんの人がいたが、ウエイトレスの女の子ががんばってくれているからもうちょっとジョズを独占していても大丈夫だろう。
キッチンの男がチェリーパイを出してくれたので、俺はそれを食べながらジョズが1枚を選び出すのを待った。

「風景画ばかりだな」

「俺、生き物描くの得意じゃねえんだ」

ジョズは小さく笑って、それならこれ、とスケッチブックを返してくれた。
彼が選んだのは、俺のテンガロンハットだった。この街に来た記念にと、先ほど描き終えたばかりのものだ。橋の手すりの接続部分につけられた飾りに帽子を引っかけて、それにピントを合わせて川を描いた。右岸には街が、左岸にはマルコの家がある森林が広がっている。

「本当にこれが好きだと思うのか?」

「疑うな、エース。絶対好きだ」

「そう?あんたが言うなら。これ」

俺はその絵をスケッチブックから破り取り、ジョズに差し出す。その時のジョズの表情は、ああやはりな、といったちょっぴり残念そうな笑みで、俺がもうここへ来ないことは俺が店に来たときから感じ取っていたのかもしれない。

「マルコに渡して」

ジョズは返事をせずに、首を縦に振った。ウエイトレスが紙袋に詰められたドーナツとスコーン、チップスを運んできてくれた。

「エース。これからどこに行くんだ?」

立ち上がり、ふたつになった紙袋を抱えると、コーラの瓶と使われていないグラスとチェリーパイの皿の片付けに入ったジョズが言った。俺は背中に落としていたテンガロンハットをしっかりかぶる。

「わかんねえけど。寒くないところがいい」

ここはあたたかすぎた。もっともっとあたたかい、暑いくらいのところがいい。そうでなければきっと俺はすぐに、あたたかさが恋しくなってしまうから。







11.07.20



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