エースの驚いた顔を見て、俺は彼の頬を滑ったしずくが自分の涙であることを知った。
数度瞬きをしてみるが、瞳に違和感はない。エースのほうも、驚いた顔から訝しげな顔に変わる。しばらくそうして見つめあっていると、彼は見たこともないような、ひどく優しげな顔をして、親指で慈しむように俺の眉をなぞった。
そのまま指を俺の耳に滑らせ、頬を包み込む。俺の体に足を巻きつけて支えにし、体を起こすと、瞼にキスを落とした。そのキスはとても神聖なもののように思えた。
ああ、誰か、嘘だと言ってくれ。
誰か、といってもここには俺とエースしかいないのだから、俺はエースにすがるしかない。そして俺は彼を信用こそしていないが、不思議と信じることはできた。信用と信頼がまるで違う種類のものであるように、信用できることと信じられることもまた微妙にニュアンスの違いがある。エースは信用はできない、しかし、信じることはできるのだ。

「マルコ」

神聖なキスとともに贈られる聖寵のような透明さを持った声の響きに唇が震えた。

「有り得ねえんだ、こんなこと。エース」

体に巻かれた足が解かれ、代わりにその両膝が俺の体を挟む。ほとんど力を入れず遠慮がちに首にまわった腕は俺に負けじと男らしいそれなのに、木漏れ日の下の泉のようにすべてを許すあたたかさがある。

「エース、おまえが笑い飛ばしてくれるなら、俺は」

その先を続けることはできなかった。
俺は知っている。もうすでに何を言われたって戻れないところまできてしまっていること、そしてひどくあたたかなこの男が同時に残酷なまでに冷たくもあるということ。
俺は諦めるしかなかった。もう、すべては覆らないところまで進行してしまっている。ジキル博士とハイド氏、スムートホーリー法、メキシコ国境、失われた世代――ダダイズムとダダイスト。
俺はそっと体を倒し、全身でエースの体温を感じた。彼はどうにもぬるまったい体をしていた。火照った体に浮かんだ汗が冷え始めているのかもしれない。髪をすくと、湿っぽさより先に冷たさを感じたほどだった。

「笑えねえよ」

耳元でエースが囁いた。すこし首を起こして表情をうかがえば、彼はとても苦しそうに眉を寄せて、それでも口元は笑みをつくろうと必死になって歪んでいた。いびつなかたちをしている。そうまでして笑顔を浮かべようとする姿に俺の声はいよいよ震えた。

「信じられないくらい、おまえが愛しい」

口に出してしまえば俺の震えは止まった。エースも笑みをつくろうとするのをやめたようだった。うっとりと目を閉じ、俺の上唇を食み、同じように下唇も食む。俺も目を閉じた。俺はエースの呼吸と、たまに鳴る鼻の音と、生命のあたたかみを帯びたその吐息と、官能的な舌と、八重歯のかすかな尖りと、薄い唇の感触だけを感じた。
そうして俺たちははじめて、俗にいう「愛のあるセックス」をした。俺はひたすら彼の名を呼んだし、彼はひたすら俺の名を呼んだ。

「あんたに愛されたかった」

そう零したエースの声は今にも泣きだしそうなくらい小さかったけれど、終ぞ彼が泣くことはなかった。





目が覚めると隣にエースはいなかった。
おそらく最後の夜であることは互いに薄々感じていたであろうに、まったくムードのない奴だと苦笑が漏れる。エースが何をしているか思い当たる節はいくつかあったが、俺は直感を信じることにして書斎へ向かった。

エースは朝とも昼とも言えぬ時間帯の、柔らかさも鋭さもない日差しに照らされ、デスクに腰掛けワーキングチェアに両足を置く非常に行儀の悪いスタイルでドアに背を向けていた。彼のすぐ脇にあるタイプライターから飛び出した紙面にはまだほんの出だししか書かれていない。エースはそれを指ではじいた。ぱしん、と紙の鳴る音がした。俺は情けなくなってぼさぼさのままの頭を掻いた。

「全然書けてねえじゃん。この1週間何してたんだよ、マルコ」

辛辣な言葉とは裏腹に、彼は満面の笑みで振り向いた。俺はちょっぴり怖気づいたが、すぐにひょうきんな顔をつくる。

「うるせえよい。そういうおまえはスケッチブック、ちょっとは埋まったか」

「ちょっとどころかいっぱい埋まった」

「チッ」

「舌打ちすんじゃねーよ。俺はあんたとはタイプが違うの」

エースの投げた紙屑はきれいに俺の額に当たった。まったく寝起きは動きが鈍って仕方がない。それとも俺はこの男に本気で骨抜きにされてしまったのだろうか。

「そのうち映画に連れて行ってもらおうかと思ってたのに、できなかったな」

「映画好きなのか」

「いいや?ただ俺、ちゃんとした映画館って行ったことないから」

「そりゃ残念だ」

「そこは連れてってやるよって言えよ」

「言わねえよい。めんどくせえ」

こうしてくだらないことを言い合うときがずっと続けばいいと願う。しかしここ数日家にいるときはほとんどバスローブ姿だったエースは今はしっかりと服を着て、ブーツを履いて、その背中にはテンガロンハットがある。床には彼の荷物と丸めて紐でくくられたオレンジ色の毛布。

「それ持ってくのかよい」

「え?毛布?うん」

「…邪魔じゃねえか?」

「邪魔じゃねえよ」

エースは跳ねるようにデスクチェアに飛び移り、腰で器用に椅子をまわしてこちらを向いた。大きく前の開いたシャツからのぞくその肌に何も残せなかったことを悔やむ。

「このまえ街で見かけて買ったんだ。マルコにやるよ」

器用に右手の指先でくるくると操り、お手玉みたいに左手に移したそれをつまむように持って光に透かす。きらりと光った。真新しい鋭い刃先はうぶで、それはとても大切なもののように見えた。

「ペーパーナイフ?」

ずい、と差し出されたそれを素直に歩み寄って手に取る。よくあるようなデザインではなく、それはすこし変わっていた。柄の部分がガラスでできている。無色透明のきれいに透き通ったガラスの中には赤と紫の入り混じった色をした花びらが散りばめられている。

「こりゃあ、男にやるにはかわいすぎねえかい」

「まあな。でもその花、ヒースの花弁なんだって」

「…まったくほんとうに嫌なことするよいおまえは」

「ははっ」

エースは笑って背もたれに仰け反り、机に置いた足を組みなおした。その足を叩いてやるとおとなしく床におろす。
両手で持って、ペーパーナイフを眺める。
ヒースの花言葉は「孤独」だけれど、こうして散り散りにされてしまうと美しい花言葉を持つほかの花々となんら変わらないように見えた。そして無造作にちぎられガラスに押し込められたそれは、どこか「脱却」を思わせる。
エースもそう感じてこれを俺に贈ったのだろうか。孤独からの脱却。それとも単に花言葉だけを見た皮肉だろうか。視線をエースに移すと、彼は真剣な瞳で、口元にはほんとうにかすかな笑みを浮かべ、こちらを見ていた。

「あんたが恋しくなったら手紙を書くよ」

エースからの手紙を開けるためだけに贈られたペーパーナイフの意味はやはり俺が感じたとおりだったのだと、そう思うとさらに目の前の青年がいとおしい。俺はどうしようもない気持ちになって、何も言うことができなかった。なんとか微笑んでみせると、彼もまたきれいに微笑んだ。






11.07.20





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