すっかり集中していると思ったエースが、くんと鼻を鳴らした。そして俺の肩を掴んでいた手に力を込めて体を離す。何事かと思えば、エースは真っ赤になって顔を反らした。

「朝食です」

「このタイミングでまっとうなこと言ってんじゃねえよい」

サングラスを額まであげたサッチはわざとらしく笑って、腕に抱えた紙袋をこれ見よがしにひょいと肩まで高く上げる。その視線がエースを追ったので、俺もつられて追ってみる。知り合いに見られて恥ずかしいのか、礼儀正しい彼にしては珍しく挨拶もせずに、右手でバスローブの合わせ目を握りながら左手で煙草を吸って俯いていた。

「大体なんでてめえが来んだよい。俺はジョズに頼んだんだ」

「まあそんなとこだろうと思って、今日は俺が買って出たわけ。おまえまた電話繋げてねえだろ?困るんだよ俺が。それに次いつ会えるかわかんねえから、エースにもな」

サッチはシナモンたっぷりのドーナツを紙袋から取り出して齧った。シナモンのにおいが腹を刺激し、眉を寄せる。俺はシナモンとピーナッツバターが大好きだ。それを知らないはずはないサッチは片眉をあげて俺にもドーナツを差し出したので、ありがたく受け取ることにする。形も、俺が好きなツイスト型だった。

「なんだよおまえら!朝食が必要なのは俺だろ!」

必死にサッチの紙袋に掴みかかるエースに苦笑しながら、彼の落とした火のついたままの煙草を踏み消す。元気な奴らだ。サッチに至っては何時に起きたのだろう。彼の髪形は時間がかかるから、起きてから家を出るまでは女のように遅い。そしておしゃべりなこの男が顔なじみのジョズに会ってすぐにこちらへ向かうわけはない。彼もきっと、昨夜は眠っていないのだろう。何をしていたかなんて詮索するつもりはないし、大方想像もつく。サッチはいくつになっても夜遊びが好きで、ドライブが好きで、24時間営業のコインランドリーで3時間読書をし続けるような男だから、きっと単に気付いたら朝だったのだろう。

「焦んなって。おまえにはとりあえずベーグルとエッグサラダがあるから。ドーナツは俺の手土産だ、どれがいい?」

「チョコのやつ」

「なにおまえチョコ好きなの?かっわいいの」

「うるせえな!」

チョコレート。目の前で繰り広げられる会話からエースの好みを拾う自分に呆れさえするが、そんな自分を鼻で笑うことすらできない。
隣家の前を通るときに香る、きれいに整えられた花園の、内部からしみ出すような必死さを交えた美しい芳香。あの香りは、自分の内に秘めた美しさを外部に放出しようとする自尊と努力の汗のにおいだ。
俺はエースを見ていて自然と笑みが浮かんでしまうようなとき、ふとあの香りを思い出す。元来香りの良い花なわけでもない、見目が完璧なわけでもない、しかし人の手が加わればそれはほぼ完ぺきなものへと変化する。香水の整った、土くささのない香りに、枯れた部分はもぎ取られ均一なかたちと色合いの生け花に。あの花の名はなんといったか。一度教えてもらったが、耳慣れないせいですっかり忘れてしまった。

「おい、マルコ、聞いてんのか?」

今年はまだ咲いていない隣家の花園から視線を戻すと、ポーチの床板に座り込んだエースは既にベーグルを半分食べ終えていた。ベーグルの中にはジャムが入っている。赤い。いちごだろうか。ざくろかもしれない。エッグサラダのにおいでかき消され、ジャムのにおいまでわからない。
俺は自分のツイスト・ドーナツを食べた。寝起きならば朝の食事はいらないが、起きてから6時間は経っているので空腹に好物のシナモンはありがたい。サッチは手についたシナモンパウダーを舐め取っていた。サッチがやってもかわいくないので視線を自分のドーナツに戻す。

「聞いてなかったよい。何の話だ?」

「だから、タイトル。おまえいつも仮題てきとうに犬の名前つけるだろ?今回もそれでいいかって。そんで、コーギーってもう使ったっけ?」

「コーギーは使った。それと、今回はもうタイトル決めてるよい」

というか、今決めたばかりなのだけれど。
視界の端に勢いよくこちらを向くエースがうつった。エースは緊張で頬を強張らせ、しかし瞳は期待できらきらしていた。俺は笑ってやった。

「おまえには教えねえ」

「はあ!?なんでだよ!いいじゃねえか!意地悪いぞマルコ!」

大声を出すエースを無視してサッチを見ると、仕方ねえなあ、といったように眉を下げて笑っていた。しばらくそうしてエースの様子を眺めていたが、俺の視線に気が付くとすっと微笑みを引っ込めて訝しげに眉を寄せる。俺は眉をあげて、庭にあるビニールの簡易プール(子どもが入るような小さいやつだ。どうして俺の庭にあるのかはわからないが、気付けばそれは庭にあり、雨水が張って苔まみれで汚かったので、片付けが面倒くさくずっとそこに鎮座している)を指差した。相変わらず毒々しい緑色に変化した雨水が溜まっている。そこから半分ほど顔を出す、コードを切られた電話機を見て、サッチが悲鳴をあげた。エースが驚いたようにそれを見ている。

「電話なんざあるとなあ、エースが昔の男に電話しやがるんだよい」

エースは再び真っ赤になった。彼は淫靡な行為や言葉にはまったく照れを見せないくせに、逆に甘い言葉にはめっぽう弱いらしい。
楽しげに笑う俺をすっきりしない瞳で見るサッチに一瞥を送ると、彼は手首を振った。
わかっている。俺は深入りしすぎている。わかっているけれど、同時に俺はきっとぎりぎりになるまでこいつを手放すことはできないし、もしかしたらぎりぎりになっても手放せないかもしれない、ということもわかっている。
すべての可能性をひっくるめて考えれば、どうしたって俺はこれ以上エースに踏み込んではならないとわかっているはずなのに、初めて感じるほどの猛烈なあたたかさといとおしさを跳ね除けることはそう簡単ではない。
俺はこんなに懈怠な男だったろうか。そうだ、俺はいつも生に対して怠惰だった。
自分自身を正当化しながら、いつか来るであろう現実を逃れ、俺はまた彼の漆黒の髪に口づけるのだ。








11.07.11




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