マルコの家には何もなかったので、俺たちは結局荷物だけ置いて街に出ることにした。流水が岩や橋脚を打つ音は荒々しいけれどどことなく宥恕を与える自然の優しさがあり、夕闇の中で風に踊らされる木々の起こす葉擦れの音は不気味でありながら心地よく耳に聖寵を感じさせ、太陽の熱をすっかり失った闇の中を通る夜独特の風は瞬間により温かったり冷たかったり、おもしろいくらいに蕪雑である。
不吉ささえ感じさせる夜の自然の逆説的な美しさの中で、もっとも美しいはずの月明かりは鋸歯のように突き刺さる。俺は拳をぎゅうっと握り、ちらりとマルコを見た。彼はこんなもん平気ですよと言わんばかりに飄々とした態度を崩さず両手をポケットに突っ込み、相変わらずちょっと背中を丸めて歩いている。
人は都会を孤独だと言う。しかし俺は自然の中にいるほうが孤独だった。むかしからそうだ。どうしてなのか言葉にすることは難しい、しかし自分ではわかっている。俺はいつも、自然にのみこまれてしまうような気がするのだ。はじめから存在しなかったみたいに。
だから俺は都会が嫌いなのだ、街が嫌いなのだ、自然の中にいるのが好きなのだ。そうすれば俺は孤独でいながら、自然の生み出す生のにおいを感じることができる。
それでいいと思っていた。けれどここ数日で、そうは思えなくなってしまった。
マルコに小説を書いてほしい。彼の見たままの俺を彼の言葉で文字にしてほしい。俺が存在したことの証明を彼の手でかたちにしてほしい。
忘れられたくない、と願ったのは初めてだった。俺はそっと指先でピアノを弾くみたいにマルコの腕を叩いた。マルコは素直にポケットから手を出した。俺は拙いしぐさでマルコの指先にそうっと触れ、手の甲を撫で、手のひらを合わせた。俺の頬を撫で、体中を愛撫し、額に浮かぶ汗を拭ってくれたこの手のひらが、俺の体温を忘れないでいてくれればと願った。
マルコはぎゅっと俺の手を握ったあと、そうっと離した。相変わらず唇をつんと尖らせ真正面を向いて歩くマルコは、もう一度その手をポケットに戻そうとはしなかった。



川辺を囲うように茂る森林の細道を抜けると大きな道路があり、そこをすこし進むともう街だ。しかし俺たちはそこまで行かずに、その途中にある道沿いのダイナーで夕食をすませることにした。俺はどこでもよかったけれど、マルコの「めんどくさくなってきた」の一言で手近なそこに決定した。
ふたりともハンバーガーをオーダーした。店の前に無数のトレーラーがとまっているような店では、滅多なものを頼むもんじゃない。無難にいくほうが成功する。

「マルコ」

「ん?」

「スケッチブックありがとう」

「気にすんじゃねえよい」

「無性にあんたが描きてえな」

口からはみ出したレタスを歯を動かしながら口の中にしまう。マルコは驚いたように目を大きくしてこちらを見たが、唇だけ微笑みをかたどってまたバーガーにかじりついた。

「なんだよ照れんなよ!」

「おまえ…どこをどう見たらそういう…」

「…本気で驚愕した顔向けるのやめてくんねえ?口からレタス出てんぞ、汚えな」

「おまえに言われたかねえよい」

マルコは人差し指の横腹でさっと口元をかすめソースを拭う。そして俺に視線を向けて、指先で自身の顎をとんとんと指す。俺は手の甲で顎を拭った。べったりとソースがくっついていて、思わず苦笑が浮かぶ。
外はすっかり暗くなっていて、明るい店内からでは窓ガラスにうつる店のようすが邪魔をしてうまく外を窺うことができない。

「なあ、マルコ」

「なんだよい」

「俺は、頼まれねえ限り、生き物は描かねえ」

マルコは何も言わず、ホットコーヒーに口をつけた。俺もならってスプライトに口をつけた。困らせちまったかな、と僅かな後悔が頭の中を1周したけれど、2周はせずに出て行った。
会計をしたあと、マルコは店主と挨拶を交わした。ここはマルコの行きつけだったのかもしれない。街にいる間はいつも決まったバールだったし、彼は一度ここと決めたら他をあまり試さないタイプだ。

「いつもここ?」

俺の隣に戻ってきたマルコに聞けば、彼はすぐに察したのだろう、にこりと笑った。

「店には滅多に来ねえが、配達をいつもここに頼んでる。安心しろ、明日の朝食も頼んどいたよい。明日の夜は街出んぞ。まともなもんが食いてえ」

自分は朝飯食わないくせにと思ったら、俺は頭を押さえつけるマルコの手を振り払うことなどできなかった。




その夜、俺はマルコのベッドで眠った。彼の家にはソファがなかったし、2度も体を重ねたのだから特に気にもならなかった。シングルだったアパートのベッドとは違い、この家の寝室は真ん中にどんとキングサイズのベッドが陣取っていた。ソファのひとつもないくせになんでベッドだけは豪華なんだよと聞いたらば、ベッドを豪華にしたからソファがないんだと返された。マルコはこの家ではベッドとデスク以外はどうでもいいらしい。
そしてベッドはキングサイズだけれど毛布は一人用の大きさだったので、俺は相変わらずオレンジの毛布にくるまっている。
マルコは夜中にベッドを抜け出した。ぱっ、と部屋の外の明かりがついて、あまり新しいとはいえない階段がぎしりぎしりと軋む音がして、ぱっと明かりが消えた。書斎の光を拾うことはできなかったけれど、耳を澄ますとタイプライターを叩く音が聞こえた。俺は眠った。




眩しくて目が覚めた。カーテンを閉めるのをすっかり忘れていたらしい。
毛布を蹴り飛ばして上体を起こすと、隣のマルコの毛布もだらしなく床で丸まっていた。昨夜から戻っていないみたいだった。
窓を開けると、爽やかとはいいがたいほどに強い風と濃い緑のにおいが俺の体と部屋に充満する。やっぱり窓を閉めようとして、ふと感じる煙草のにおい。下を見ると、ポーチに置かれたロッキングチェアに背中までぴったりと沈めて、右手で煙草を吸いながら左手で本を読むマルコの姿があった。床にはジャックダニエルの350ml 瓶がしっかりとキャップを締めた状態で置いてあり、そのまわりに数本の吸殻が散らばっている。
俺は静かに窓を閉め、バスローブの緩んだ紐を結びなおしながら階段を下りた。この強風の中よくもあんなに優雅に本なんて読めるなと思ったが、ポーチに出てみるとあまり風を感じなかった。庭に茂る森林が風よけになっているのかもしれない。

「マルコ、おはよう」

眼鏡を鼻まで下げて俺の姿を眺めたマルコは、優しげに微笑んだ。

「起きたのか。随分早えじゃねえか。朝飯まだ届かねえぞ。そして俺の新聞も届かない」

マルコは両手を広げてやれやれ、といったようなポーズを取って本を閉じた。俺は笑った。マルコは眠っていないはずなのだけれど、とても元気そうに見えたし機嫌もよさそうだった。俺はマルコのライフスタイルを知らないから、彼が眠っていないことに対して口をはさむつもりはない。夜のほうが集中できるのかもしれないし、昼寝をするつもりなのかもしれないし、もともとあまり寝るほうじゃないのかもしれない。

俺はマルコに近づいて行って、唇にキスをした。マルコはちょっとびっくりしたみたいで、小さく声が漏れた。俺が唇を離すと、彼の腕が俺の首のうしろに回った。そのとき彼の手から離れた文庫本が俺の裸の左足を直撃したけれど、俺は文句を飲み込んでじんと痛む左足を宙でぶらぶらさせながら、彼とのキスに集中することにした。








11.07.11






「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -