サッチとマルコの表情が頭から離れない。彼らのようすを見ると悪いことがおこるということはわかったけれど、俺にとって何が悪いことなのかがよくわかっていなかったし、何が悪かったのかもわからない。
俺は肺のあたりを押さえた。肺、喉、食道、胸のあたりを形成するそれらの臓器が、気管が、なんともいえぬ感覚を生み出す。苦しいのとはすこし違う。具合が悪いわけではない。たとえるならば、酒が飲みたいな、とか、煙草吸いてえな、と思うときの感覚に似ている。あの、わずかに呼吸が浅くなり、ふいに深呼吸をしてしまうほどの。
俺は帽子を外し、その中をのぞきこむ。そこには絶対に消えないように、なくさないように、幼少を共に過ごした親友であり兄弟であり何より欠かせない存在である男の電話番号が縫い付けてある。最初はペンで書きこんだだけだったのだけれど、彼は一度だけ電話番号を変えたので、その上から新しい番号を書いた布きれを縫い付けた。
歩道の真ん中でそれを眺めているとすれ違った人と肩がぶつかってしまった。俺は我にかえる。電話だ、電話しなくちゃ。きっと何かを渇望するこの感覚が示す先は、親友の穏やかな声音なのだ。

手近にあった店に入り電話ボックスを目で探す。ふたつ並んだそれのひとつにはこれからディーラーに会うのかなと思えるほどにいかにもジャンキーといった風体の痩せた若い男が籠っていたが、もうひとつは空いていた。
俺は小走りでそこへ向かって、扉をしっかりと閉める。隙間なく閉まっていることを確認すると壁に肩を預けて帽子をとり、右手で手探りでコインを探す。コインはあったが、金額が足りない。紙幣ならあるけれど、電話ボックスではコインしか使えない。崩してくるしかなさそうだ。俺は諦めて電話ボックスを出た。

手軽な買い物はないかと通りに出てみたが、俺はすっかり自分の気分が落ち着いていることに気が付いた。もちろんサボに電話はしたい。しかしそれは、すぐにじゃあなくてもいい。
崩すより稼いでやろう。俺はテンガロンハットをしっかりとかぶりなおし、鉛筆をくるくる回しながらちょうどいい場所を探した。




この街は温かさがないがしがらみもない。俺はひどく自由だったが、マルコやサッチがいなければひどく孤独であっただろうと夕闇に埋もれながら思う。マルコは夕飯までに帰って来いと言ったけれど、だいたい夕飯って何時だよ。俺は左腕を見た。時計は止まっている。
俺の都合でマルコのスケジュールを狂わせてしまうのもなんだか申し訳ない気がして、俺は電話を諦めてアパートへと向かった。彼のアパートへ続く細く狭く暗い裏路地は相変わらずむんとしたごみの臭気を漂わせ、ごきぶりが道を横切るのを見た。
アパートの正面に立つと、マルコの部屋を見る。ほんのりとランプの灯りが漏れている。

「マ――」

「また大声で名前呼ぶ気がよい」

背後から口を手で塞がれる。あきれたような顔をしたマルコがそこに立っていた。

「マルコ。もしかして待ってた?」

「んなわけあるか。タクシー呼ぶんで近くの店に電話借りに行ってたんだよい」

「あんたんとこ電話あんじゃねえか」

「サッチがうるせえから線引っこ抜いてたんだが、戻そうと思ったらうまく回線が繋がんねえんだい」

お手上げだ、というようにマルコは両手を顔の高さに上げておどけたように眉をあげた。俺は思わず微笑む。なんでもこなしそうな風体をして、彼はなかなかに不器用なところがある。

「おまえは何してた」

「俺か?別に取り立てて言うほどのことは何もしてねえよ。電話しようと思ったら紙幣しかなくて、コイン稼ごうと街角に立ったらこれがなかなかいいポジションでさ」

その街角からは、数々の装飾された現実を見渡すことができた。安っぽいが独特でどこか宗教的な魅力のあるアクセサリーを売る露店商、彼を嘲るように見下ろすラージ・サイズのコーヒーをくわえたソフィスティケートされたすらりとした男、アンナ・シュミットみたいなママとホラー映画で間違いなく犠牲になるタイプの娘のツー・ショット、妙な音を立てる気取った車と舞い落ちる羽、アイスクリームの水たまり、鴉、鴉、鴉。どこからか漂ってくる土と腐った植物の根のにおい、煙たい空気に噎せたのは俺ひとり。
決して好きではない、しかし心に残る、一種の芸術的汚さ。
俺は露店商を描き、アウトロー気取りのジャンキーが買った。俺は街並みの風景画を描き、すこしくたびれた服を纏ったステッキに頼り切って歩いている老紳士に売った。俺はその場に気配すらなかった林檎と花瓶の並んだ絵を想像で描いて、映画の主人公になりそうなタイプの、美人だけれど変わり者の空気を持つ女に売った。

「電話って、誰にだよい」

俺の返答と彼の質問の間にはたっぷりとした沈黙の数秒があって、俺は笑ってしまった。マルコは煙草に火をつけ、最初のひとくちを吐きだすと舌打ちをした。

「俺は確かにあんたに比べりゃガキだけど、残念ながらそんなに鈍感でもねえんだよ」

マルコの首を抱えるように右腕を回すと、びっくりして抵抗もできなかったマルコは前のめりになった。その情けない姿がまたおかしくて、俺はまた彼の耳に唇を寄せる。

「嫉妬してんじゃねえよ、ばーか」

マルコはどう返したらいいかわからないといったような顔をしている。俺は困ってしまった。

「おいマルコ。あんたが言い返さないから変な空気になったじゃねえか。どうすんだこれ」

俺のからかいにマルコは、いつもみたいに、馬鹿言ってんじゃねえよいとかこのクソガキとか返してくれればよかったのだ。そしてなんとかしてできあがってしまった空気を霧散させようとする俺の努力に乗っかって、おまえのせいだろ、とかどんな空気だ馬鹿、とか言いながら軽く頭をどついてくれればよかったのだ。
それなのに、マルコは俺の頬をひと撫でして、キスをした。そして耳元で囁く。

「おまえがいつ帰ってくるかわからなかったから、タクシーは2時間後に来るように言ってある」

時間はじゅうぶんすぎた。
マルコは俺を片腕で支え、その腕で上半身を愛撫する。そのままの体勢で階段をのぼるのはなかなか骨が折れたけれど、彼の腕の動きが止まるたび俺は彼に体を寄せた。マルコの首筋を汗が伝い、全身が火照りじわりと汗の浮く俺の体からも汗のにおいがした。

マルコの顔は歪んでいた。きっと俺の顔も歪んでいたと思う。
生まれてはいけないものが生まれてしまったという事実を眼前に突き付けられた俺たちは互いにどうしたらいいのかわからない。
諧謔曲が聞こえる。チャック・ベリーが、ナット・キング・コールが聞こえる。それらは隣接するアパートに反響し、その音がさらに反響し、いったいどこから聞こえてくるのかさっぱりわからない。
マルコのアパートのドアが閉まるとそれらの音は聞こえなくなる。耳に残るのは人間の生々しい息遣いだけだった。






11.07.05





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