一度も振り返ることなくベルのついたドアをくぐっていくエースの背中をじっと見送る、その男をじっと見る。ちょっと錆びついているせいで長く響きを残さないベルの音が聞こえなくなってたっぷり5秒ほど経ったところでマルコはちらりと俺を見た。そして気まずそうに視線を手元の煙草へと向ける。煙草とは、いかなる場合でも逃げ道なのだ。小説中で間をもたせたければキャストに煙草を吸わせればいいし、ストーリーに苦さがほしければ煙草を吸わせればいい。そうすればたちまちハードボイルドが完成する。そして生身の人間も、日頃の鬱憤から解放されるために、自分を高く、場合のよっては安く見せるためにそれを吸い、正面に座った男との会話に沈黙をおとすためにそれを吸うのだ。

「わざわざ俺に言われなくたって、わかってんだろ?マルコ」

マルコは気だるげに頬杖をつき、下唇を突き出すようにして煙を吐いた。俺は彼がいまだ口をつけていないサンドイッチをひとつもらった。レタスはしなびていた。しかしマーマレードの分量はちょうどいい。俺の好みだ。

「エースが好きなのか」

「そんなんじゃねえよい」

「でも、わかってんだろ」

「…参ったな」

マルコは耳を掻いた。すこし伸びすぎてしまっているかんじのする爪につままれて、彼の左耳の上部はぼんやり赤くなっている。
俺がハム・サンドに手を伸ばすと虫でも払うみたいに叩かれた。彼はまだコーヒーにしか口をつけていない。エースの飲み残したミルクの生々しい白と、そこに浮いた水膜を見ていたら、俺はなんだかシリアルが食べたくなった。

「ああ、そうだな。わかってる」

そう言ったマルコの声音は凹凸がなく平坦で、とても無機質なかんじがしたけれど、それが逆に彼が既に深みにはまりかけていることを示している。さきほどのマルコの柔らかな表情を見て俺はすぐに気付いたし、自己管理ができないほど情けないおとなでもないマルコもとっくに気が付いていた。
自覚しなくてはならない。俺たちは、世界からパージされた人間の一種である。

「はまる前にどうにかしろ。マルコ、今までもそうやってきただろう?」

「てめえに説教されることほど頭にくるもんはねえよい」

「じゃあ、本当にわかってんだな」

「わかってるっつってんじゃねえか。しつけえよい」

マルコが俺に向かって唾でも吐き掛けそうな勢いだったので、俺は素直に両手を挙げて降参のポーズをとる。この男ならやりかねない。マルコは昔から俺に厳しいのだ。

「エース、なあ。俺にこう言ったんだぜ。あんたも俺と同じだろ?ってな」

指先でちくちくとする自分の髭を撫でながら言うと、マルコの眉間に皺が寄った。おいおまえ、わかってるっつってももう手遅れなんじゃねえだろうなと一抹の不安が過ったが、知らんぷりをして笑みをつくる。

「俺はとっくに放浪やめて、こうして真面目に働いてるっていうのにな」

「…そうだな」

コーヒーカップに口をつけたマルコの口角がほんのりと上がっているのを見つけて、俺は少々の照れくささに煙草に火をつけた。ほうら、煙草とはいかなる場合にも適用される万能な逃げ道だ。

カレッジ時代から本の虫だった南国生まれのマルコと、見るからに変人だったアジア系アメリカ人のイゾウと、幼少期から親にくっついて各国をまわっていた俺と。俺たちの気の合ったのは当時こそ不思議だったけれど、今となってはわかるのだ。俺たちは孤独を愛し、温もりを愛した。内面的にはずっと孤独でありたいけれど、人的に孤独ではありたくない。プライドと仁愛のアプリオリ。俺たちはそれが顕著すぎたのだ。そういう場合、それを埋めてくれるのは同じような人間だけだ。
懐かしさに目を細める。英国で多少名が通り始めたというのに、ここの空は嫌いだと言って海を渡ったマルコ、卒業もせぬまま行方をくらませたイゾウ(今でも不思議なのは、この国で俺がマルコと再会したとき、なぜ彼は俺たちの電話番号を知っていたのだろう。これを訊ねると彼は決まって、俺だからな、と言うのだ)、親が死んでからも一所に留まることを本能が許さなかった俺。週に一度は必ず顔を合わせる。あんなに長い間、連絡すら取りあっていなかったというのに。

「あいつが俺と同じだっていうなら、いるはずだぜ」

「何がだよい」

「離れていても結局離れられねえ男」

マルコは舌打ちをしてサンドイッチを食べた。時間が経ってしまったせいで水分を吸ってへなちょこな姿になったパン、逆に水分を吸い取られてしょんぼりしているレタス、唯一変わらぬ味を提供してくれる生ぬるいハム。想像どおり苦い顔をしたマルコを見て俺は笑った。

「サッチ、俺に説教しといて煽ってどうすんだい」

「好きじゃねえんだろ?」

「そういうんじゃねえ。ただ、手放そうと思えねえだけだよい」

マルコの言葉に今度は俺が苦い顔をして頭を抱える番だった。ライムの種を口内で転がしたときみたいに、粘膜が吸いつくかんじがする。俺は唾を飲んで、それから溜息を吐いた。

「嘘だろ。おまえ、抱いたのか」

「ああ」

「エースを?」

「ああ」

テーブルに顔面を埋めた俺に、ごきげんな笑い声が降りかかった。





数時間前にエースを見送ったマルコのように、一度も振り返らずドアをくぐる男の猫背気味の背中を眺める。
マルコの背中は常に、なぜだか、どことなく寂寥感を滲ませる。その理由を俺たちは知っている。彼が“孤独を愛し、温もりを愛する”人間だからだ。
孤独を知らない作家が書く小説なんていうものは所詮はただの言葉の羅列であり、つまらないインテリたちの暇つぶしにしかなり得ない。
誰かが言っていたじゃあないか。良い作家とは例外なく酒飲みだ。それは何故?孤独だからだ。
去って行った男が幸福よりも孤独を取ることを俺は知っている。

「はじめっから捨てるつもりの人間なつかせて、まあ」

酷い男。
食器を下げに来たウエイトレスに演技かかった調子でそう言えば、彼女はこちらを一瞥しただけで去って行った。










11.06.29





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