ぼうっと天井を見上げたまま荒い呼吸を整えていたエースが動く気配がした。ソファが軋み、ゴト、ゴトとブーツを履いたままの両足を床におろす音。俺はまるで橋桁のように、ただ空気の震えを読んでいる。

「あんたの好きなもん、わかんなかったんだ」

俺は振り向いた。エースは両足をしっかり床につけ、だらしなくソファに深く腰掛けていた。俺はこのとき初めて部屋がひどく暗いことに気が付いた。昼間はあんなにまんまるの太陽が茫洋たる青空を照らしていたくせに、今や分厚い雲がはびこっている。俺の代わりにサッチの空けた枠を埋めたSF作家が好きそうな空だな、と俺は思った。

「嫌な空だな。俺は嫌いだ」

思考を読まれたのかと思った。しかし同じ瞬間に同じことを考えている人間がいるというのはどことなくうれしいもので、俺は彼の髪を撫でた。エースがくすぐったそうに目を細めたのが分かった。彼のうねった毛先が頬を突くさまは、見ているだけでくすぐったそうだ。知らず自分の瞳も細くなる。

「俺もだよい」

長く音を発していなかったせいで掠れる声で言った。エースは息を吐くように静かに微笑んだ。彼らしくない笑みだった。しかしその吐息にいまだ残る熱にあてられて、俺は反射的に手を離す。

「知ってるよ。マルコの本を読んでいればわかる。あんたは太陽が好きで、雨はあんまり好きじゃなくて、曇り空が嫌いだ」

「それがわかれば上出来だよい」

エースはうれしそうに、はにかんだ笑顔を見せた。俺はじんわり心臓が溶けていくかんじがした。彼のその笑顔は俺に庇護欲を覚えさせた。

「だから俺のスケッチブック、今日は真っ白なわけ。でも質問をひとつ。いいだろ?抱かせてやったんだから」

「抱いてもらったの間違いだろい」

「はあ?人が黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって」

「むしろいつ黙った」

特にからかうつもりもなくて、ただ先ほどからエースは喋りっぱなしだったからその事実を返してやっただけのつもりだったのだけど、それは彼の気に障ったみたいだった。俺はよくこういうミスをする。

「怒るなよい。答えてやるから」

エースを怒らせたいわけではない。彼が怒ると俺はどうにもおかしくなる。普段だったらサッチをあしらうみたいにただ澄ましておくのに、どうしてだか彼の喧嘩腰には引きずり込まれてしまう。おとなという俺の土俵で戦えば勝率はぜったいに俺に分があるというのに、俺は気が付けばこどもという彼の土俵に立っているのだった。
エースのまっすぐな感情は俺の腐った部分に蝟集した虫どもを蹴散らし、剥き出しになった俺の感情そのものを鼓吹する。

「言ったな」

エースの顔にいやらしい喜悦の情が浮かぶ。情事の気怠さを微塵も感じさせない機敏な動作でぴょんと立ち上がったエースの、嬉々としてキッチンに立つ裸の背中を眺める。
気を引くのが一種の才能だとすれば、気を逸らすのも一種の才能になり得る。おそらく彼はそれがうまいのだ。何かが生まれかけた、熱帯夜や普段は拝めぬ都会の夜明けの光、今夜のような何かを刺激する神秘的な月夜、それらを彷彿とさせるあの独特の気管を冷やし頭を煙で満たすような空気を霧散させるそれは意識的なのか無意識なのか。おそらく意識的だろうというのは一瞬ちらりとこちらに向けた視線でわかる。
彼は今までもこういったことになるたびに、その巧緻な才能で喝破させたのだろうか。そう考えると模糊とした何かが自分の中に広がるのがわかった。
考えるのはやめた。それは俺の仕事であり、しかし今手元にタイプライターはない。そうある限り、俺は考える必要がないのだ。

「俺が聞きたいこと、わかるだろう」

エースはやはりカフェオレボウルを使ってグレープ・ジュースを飲んだ。俺にはブラックコーヒーときれいになった灰皿。気の利くやつだ、と俺は思う。

「劇場で生まれた」

と俺は言った。顎を上げて煙を吐けば、喉仏がすこし痛んだ気がした。「げきじょう」と確かめるみたいに発音したエースはしばし思考を巡らせたあと、困ったように俺を見た。俺は煙草を勧めてみる。彼は首を振って断った。

「…ごめん、俺、イル・トロヴァトーレ知らねえんだよ」

「構わねえよい。まあ、よくある、嫉妬と欲にまみれた復讐劇ってやつだ」

「そうか」

エースはそれ以上追及しては来なかった。彼には俺の生い立ちなどどうでもいいのだ。その態度は好ましい。件のオペラのような、とてもまともとは言えない環境で生まれ育ち、この歳になってもやはりうまく受け入れることができない。とっくに消化はしている。けれどあの年月を生きた少年がほんとうに自分だったのか、よくわかっていないだけだ。とにかくあまり深く考えないらしいエースにとっては、どうして改題したのかという疑問が解決したわけだ。
俺は彼の次の質問を想像してみる。きっと合っているはずだ。エースは俺に、それで本当はどこの生まれ?と大して興味なさそうに、しかししっかり俺の目を見て問うのだろう。
しかし俺の予想は見事に外れた。俺は少々動揺してしまって、膝の上に灰を落としてしまった。

「俺は監獄で生まれたんだ」

とエースは言った。まさか彼が自分のことを話すなんて思わなかったから、驚きを隠せなかった俺のようすを見て、彼は朗らかに笑った。

「俺はマルコみたいに比喩なんて使えねえからさ。そのままの意味だけど」

エースは組んだ足をぶらぶらさせて、テーブルの煙草をその長い指先でたぐり寄せる。中指と人差し指の間にはさむと、一度テーブルでフィルター部分をとんと叩いて持ち直した。

「そんな場所で生まれた子どもがどうなるか想像つくだろ?」

「捻くれるな」

「まったくだ」

俺に視線を向けたまま、微笑みながら煙を吐く彼はひどく妖艶に見えた。その艶やかさは、自分がまさにそうであると示している。

「13歳になったとき、初めてマルコの本を読んだ。ええと、あれだ。『トロヴァトーレの牢獄』。あんたの描く牢獄は退廃的で、でも汚くなんてなくて。なんつうか、かっこよかった。映画や小説によくある過度に同情的な部分がないっていうかさ。俺、あれ嫌いなんだよ。まあそれで、俺はどんな部屋で生まれたかどうかなんてちっとも覚えちゃいねえけど、あんたの本を何度も読んで、俺はこの小説の中の牢獄で生まれたんだって信じ込むことにしたんだ」

それで、信じられたか?なんて聞くのは野暮だった。エースの屈託のない笑顔を見ればわかる。彼は信じられたのだ。だから家を出たのだろう。エースはひとりの人間として自分自身を認めることに成功したのだ。それに自分が一役買っていると思うと、なんとも言えない気持ちになった。嬉しいのかもしれないし悲しいのかもしれない。とにかく表現できない感情だ。街中のチラシを集め、ミキサーでシェイクして出来た一枚の大きな看板みたいに。表現するにはあまりに多くのものが混ざりすぎてしまっている。

「それで、マルコ本当はどこの生まれ?」

俺は笑ってしまった。しかしそれは思いのほか穏やかな笑みになり、少々気恥ずかしいのをごまかすようにエースの頭を撫でた。

「南の国だよい」

「だと思った」

エースは満足げに呟いた。








11.06.20




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