勝手に出てきたはいいけれど俺は彼の部屋の鍵を持っていないのだったと気が付いたのは、まさに彼のアパートへ向かう道すがらだった。日も暮れかけている時間帯ではあるけれど、帰っていなかったらどうしようか。悩むまでもなかった。俺は路上に、吹きさらしに慣れている。
マルコのアパートが見えてきて、心持ちゆっくりになる足でエントランスへと向かう。ふと、鳥の影のような投擲に顔を上げると、マルコの部屋の真下の住人がシーツを取り込んでいるところだった。風になびいたそれは地上に影をおとす。髪をぴったりと頭に撫でつけた初老の女性がシーツとともにひっこむと、俺はマルコの部屋の窓をじっと見遣る。窓は開いていた。

「マルコー!」

「うるせえよい!」

「いってえ!」

大声で叫ぶと、間髪入れずに負けないくらいの大声と空っぽの水のボトルが落ちてきた。マルコの金髪はくすんでいるから、日差しを浴びても輝いたりしない。

「俺、あんたの部屋の番号わかんねえよ!開けて!」




マルコはキッチンでライムをしぼっているところだった。右腕にタオルを垂れ下げて、両手をどろどろにしながらも、扉の閉まる音がしたのに一向に動かない俺の様子を見るように棚の影から顔を出す。たったそれだけのことが俺にはちょっと恥ずかしかった。
いいにおいがする。きのうはオレンジを食べたし、ここでは柑橘系のにおいばかり嗅いでいる気がする。

「部屋の番号なんて覚えてなくたって、門の呼び鈴の隣に名前書いてあんだろい」

「書いてねえよ」

「……水性ペンで書いたからな」

俺は思わず笑った。マルコはすこし不服そうな視線を向けただけでお咎めはなかった。
ソファに座った俺の前に、彼はライムソーダを出してくれた。礼を言って口をつけると、汗をかいて乾ききった喉が一瞬にして元気を取り戻す。マルコは自分の分のグラスを持って俺の隣に座った。彼のグラスからはアルコールのにおいがした。彼はジン・トニックにしたらしい。

「飲み足りなかったら自分で勝手に注げよい。あんだけ走り回ったんだ、喉渇いてんだろ」

むせた瞬間、炭酸が気管に入って大げさな咳をする。マルコは仰け反って笑った。笑いごとじゃねえよと返したいのだけれど、それ以上に見られていたという羞恥が勝って咳が止まっても彼を睨み付けることしかできない。

「それで?てめえ何やった」

マルコの顔からは既に笑みの欠片もない。これは真剣な話なのだ、と否応なしに理解させる厳しい視線に嘘などつけるはずもなかった。俺は開き直って、はっきりと言う。

「食い逃げ」

マルコの口からジントニックがこぼれた。彼は手首で顎に伝った液体を拭い、口を開くことなく喉だけで何度か咳払いをする。俺はそのようすをただ無言で見つめていたのだけれど、無防備だった俺の額に最高にスナップの利いた平手が飛んできた。

「ガキかてめえは!」

「うっ…マルコこのやろう…マジで痛え…」

涙目になった顔を隠しながらマルコの裸足の足をブーツで踏んづけてやると、彼は大口を開けて呻いた。

「てっめえ、こんのクソガキ…!」

「うるせえな!腹減ったんだよ仕方ねえだろ!」

俺がまるでガキの喧嘩だと認識しているくらいだから、マルコはもっとそう感じているに違いない。マルコはしばらく俺のことを睨み付けていたがひとつ舌打ちをすると、何事もなかったかのように夕刊を広げた。

「…なあマルコ、俺はこの痛みと怒りの残滓をどうしたらいい」

仏頂面でしばらく新聞を眺め続けていた彼はしかし、一度ちらりと俺に視線を遣ったあと、広げた新聞に顔をうずめた。彼の肩は殺虫剤をあてられて痙攣を始めたばかりの虫のように小刻みに震えている。笑うときは意外に朗らかに笑うマルコが笑いをこらえているさまは俺を楽しませた。俺は肩と肩が触れ合うくらいに近づいてみる。マルコはさらに新聞に顔を寄せる。肩に手を置いてみるとおおげさにびくんと跳ねた。俺はいよいよ楽しくなってきて、ピアスの塞がった痕のある彼の耳へと唇を寄せた。
からかいの言葉をかけてやろうと思ったのに、声とならずにただ吐息だけが漏れる。マルコの肩の震えは止まっている。

違う、こんなはずじゃあなかったんだ。
自分の吐息に熱がこもるのを自覚して、俺は泣きそうになった。感情の膿汁が染み出たみたいに瞳に膜が張るのがわかる。涙ではない。これは熱の水膜だ。
歯を使わずに唇だけで彼の耳をゆっくり食む。唾液がでないように舌を引っ込めて、唇を耳から首筋へと移動させる。彼の血管がどくんと脈打つ。一度唾液を飲み込んで再度唇を開くと、粘膜が摩擦を起こす生々しい音がした。
マルコが新聞を床に落としたときのばさり、という紙の音が、街衢の喧騒よりひどく頭に響いた。
俺と同じように熱の膜を瞳に浮かべたマルコはひどくゆっくりとした動作で俺の頬を掴んだ。それは人が死んでしまった犬に差し伸べる手にどこか似ていると俺は思った。人はそれに触れるまで、まだ生きているという僅かな希望を、偸安を求めるのだ。そして触れてしまえばすべてを理解する。
俺は目を閉じた。俺たちは逃げ場をなくしたのだ。




一言も言葉を交わさないセックスで耳に残ったのは互いの荒い息遣いとグロテスクな水音ばかりだった。行為は終わったというのに、俺はいまだ耳に残るそれに苛まれて両手で抱えるように耳を塞いだ。狭いソファでは寝返りすら打てやしない。
マルコは俺に背を向けたまま煙草を吸った。彼の背は赤くなっていた。俺が無我夢中で掴んだからだ。
彼は今日のこのことも本にするのだろうか。俺がどのように乱れ、どのように彼の体に縋ったか。
視線を窓の外に流す。夜はこれからだった。








11.06.16



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