「なんでエースは来ねえんだよ!」

ようやく会話が途切れ、数秒の沈黙を経てサッチがいきなり両手の拳でテーブルを叩いた。なるほど、やけに今日はよく喋ると思っていたが彼はエースを待っていたわけだ。職業のせいも歳のせいもあって、時間の感覚はどうにも薄い。元来おしゃべりではあるけれど長い付き合いの俺の前ではそう無駄口を叩くことのないこの男が延々と喋り続けていた時点で気付くべきだった。

「早く言えよい。無駄な時間過ごしちまったじゃねえか。待ってたってあいつは来ねえ」

「あぁ?なんだよ情けねえなマルコ、もう逃げられたのか」

「んなわけあるか」

奥歯の裏にくっついたピーナッツの薄皮を舌先でいじりながら首を掻く。ふと外に目を向けると、平日なのに休日のにおいをさせる晴天が店内のガラスに反射して俺の目を打った。思わず目を細める。逸らさなかったのは、視界をオレンジ色が掠めたからだ。
ヤッピー気取りのお坊ちゃまとプライドばかりが高いビジネスマンたちのはびこるこの街で、俺たちのラフすぎる格好はとくべつに浮いていた。そしてそれに負けないくらい、いやそれ以上にこの街にそぐわない姿をした青年が帽子を押さえながら窓の外を走り去っていった、そのあとを、いかにも真面目そうにしっかり頭の形にあった警察帽をかぶった男が追って行った。
俺は頭を抱えて盛大にため息を吐く。見間違いであったならと思わなくもなかったけれど、彼がトラブルを起こしてもなんら不思議はないタイプの男であることを俺はもう理解してしまっていた。

「どうした、マルコ?」

「サッチ、どうせ暇なんだろい。もうすこし付き合え」

サッチの返事を待たずに俺は右手を挙げてウェイター!と叫ぶ。馴染みのウェイターはこちらを向いた。俺はちょうど彼の立っていた場所の真上くらいの位置にあるメダイヨンを指差した。指先を辿ったウェイターはレミーマルタンを手に取ろうとしたので俺は小刻みに首を横に振る。その次はこともあろうにカミュに手を伸ばしたので、俺は思い切り歯を剥き出しにする。彼は俺の顔を見て笑った。そうしてようやく目的のコニャックにたどり着いたので、俺は満足してサッチに向き直った。

「おいおい、昼からそれいくかぁ?」

「一仕事終えたところだし、別にいいだろい」

そしてどうせ、もうしばらくは暇なのだ。結構な近距離で追いかけっこをしていたから、エースが警官を撒くまでもうしばらく時間がかかるだろう。そして彼は完全に撒いたとわかるまで自分の行動テリトリーに戻るようなまねをするとは思えない。
夜に予定があるからとビールをオーダーしたサッチのそれとグラスをぶつけて、予想外の暇つぶしにと俺は今朝の話をした。





「なんか意外だな。あいつ英国出身だったのか」

煙草の箱をとんとん手のひらにあてるが一向に出てこないのを見て、サッチは片目をつぶって中を覗き込んだ。そして舌打ちをして箱を握り潰す。俺は煙草を箱ごと投げてやった。彼はにっこりした。

「てっきり南半球かと思ってたぜ。紳士の国って柄じゃねえし」

まったく考えなかったが、確かにそういわれてみれば、初版本を知っているということはおのずとそういうことになる。無名作家の本なんてその国でしか発刊されないし、名が売れてからはこちらでも再版されたが、初版が出されたのは8年ほど前になる。そのころエースはまだ子どもだったはずだ。その年齢からバックパッカーまがいの生活をしていた可能性も否めないが、彼のそれなりに教育された知識と言語能力を考えると、幼少期は比較的安定した生活を送っていたように思える。

「そういうてめえもフランス育ちには見えねえよい。喋れねえし」

「うっせーな!」

ソーセージにフォークを突き刺すと、ぷつりと皮をやぶる香ばしい音と肉汁が散った。口に近付けると、少々焦げ臭い。かじるとまた、フォークを刺したときと同じようにぷつりという音と脂が散った。

「ところでエースは何で来ねえんだ?」

「どうやら俺が改題した理由が知りてえらしいな。口割らせるために、とびっきりのもん描いてくるからって元気に飛び出してったよい」

「描く?」

「ああ。あいつは絵を描く」

サッチの瞳に一瞬好奇心の色が宿ったが、彼は意識的にその目を伏せた。沈黙がおりたのを見計らってバイトのウェイターがサッチの空になったジョッキふたつと瓶ひとつを下げていく。

「コーヒー」

と俺は言った。サッチも煙草を吸いながら左手を挙げた。ウェイターは頷いて、危なげもなくジョッキと瓶をまとめて右手に持ち、左手で俺のグラスもさげていく。
一度用を足しに席を外した。戻ってくると、外の売店で買ったらしい新品の煙草がテーブルにふたつ並んでいた。サッチが遠慮なく吸うものだから、俺のものも2本を残して空になってしまっていたので、顔の横に掲げることで礼を示す。頬杖をついたままサッチは笑った。

「うまくやれているわけだ」

「何の話だよい」

「おまえとエースの話」

サッチは耳の横でくるくると人差し指で宙に円を描き、その手をテーブルにおとすとピアノを弾くみたいに指先をとんとん鳴らした。俺は顎をあげて頭上に向かって煙を吐く。

「そりゃあ俺が入りこめないわけだね」

「おい。気持ちわりいぞ、拗ねんなよい」

俺は笑った。
コーヒーがなくなったのを合図に、店の外で俺たちは別れた。




アパートに戻ると、エースはまだ戻っていないみたいだった。彼は俺の部屋の鍵を持っていないし、エントランスにもおらず店まで来なかったということは、つまりそういうことになる。
俺は鍵を手に持ったままエントランスの前でしばし立ち尽くす。ポケットにつっこんでいた左手を上げ、時間を確認する。そして空を見た。相変わらずの晴天、鳥が飛んでいく。アパートの屋上にとまり、妙な声で鳴く。建物の間にあるわずかな隙間へ猫が小さな体を滑らせていく。このあたりに猫は多い、しかし犬はあまり見かけない。耳をすませば、どこからかまではわからないがかすかにレコードの音が反響していた。コーディッツ。おいおい勘弁してくれと俺は誰に向けるともなく苦いかおをする。
俺も甘くなったもんだと、キーをポケットに戻して踵を返した。









11.06.16





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