昨夜ぴょんと跳ねた黒髪とすこし爪の黒くなった裸足の足先が覗いていたオレンジ色の毛布は、今は風を失った凧のようにしょんぼりと床に伏している。エースはなぜかソファを使わずにその下の床で眠った。朝までそうしていたことを示すみたいに、ソファの上には彼が脱ぎ捨てたブーツが昨夜のままひっくり返って転がっていた。
朝というにはまだ早いような気がしていたが、時計を見てみれば6時をまわったところだった。太陽は出ていない。今日は雲が多い。やれやれ、まるでロンドンだ。俺はまばゆいほどの朝日とどこでもすぐにコーヒーが出てくる環境を求めてこの国にやってきたというのに。
くるりと部屋を見渡してみれば、普段は開け放しの書斎のドアが閉まっている。あの部屋の窓は書棚で塞がれてしまっているため換気ができず、すぐに埃くさくなるので、俺が閉めることはない。

「エース。いるか?」

靴はここにあって寝室にもバスルームにも姿がないのだから彼がここにいるのは自明の理であるのだけれど、ぴたりと隙間なく閉じられた扉の見慣れぬ姿に、俺は柄にもなく内在する何かを見て取った。それは不安と恐れと疑念だった。彼がこの扉の先にいなかったらというわずかな蓋然性に俺は勝てなかったのだ。

返事を待たずに扉が開いた。彼は親指で縁の内側を押さえるようにして片手でカフェオレ・ボウルを持ち、もう片手には指を挟んで完全に閉じないようにした本を持っていた。紙のにおいとインクのにおいと埃のにおい、コーヒーのにおいが香った。

「マルコ。早えな。今何時?」

「6時」

「はあ?うそだろ。ほとんど徹夜しちまった」

「12時には寝てたじゃねえか」

「そのあと2時に起きちゃったんだよ」

がりがりと頭を掻くエースはほとんど眠っていないことを思わせないほどに血色がよかったけれど、それならば右手に持っているコーヒーは恐ろしくまずいことになっているのだろうな、と眉を顰める。冷めたコーヒーは嫌いだ。

「ほら、これから寝りゃあいいじゃねえか。退けよい。俺はここで仕事すんだ」

「え、もう?朝飯食わねえで?朝の散歩もしねえで?ていうか顔くらい洗えよオッサン」

目やに付いてんぞと示されて目元を拭う。コーヒーだけでもいれてやるよと言うエースに、首を2、3度小さく縦に振って、頼む、といったような意思を示す。彼は追い抜きざまに俺の肩に本の背をぶつけることで了解の意を示した。
朝はひとりでゆっくり、自分のペースで過ごすのが好きだったはずなのに、決して口数の少ないほうでも視覚的におとなしいほうでもないエースと過ごす朝は不思議と面倒なかんじがしなかった。おかしいだろう、まだ会って2日と経っていない相手に落ち着くだなんて。本のためでもあるけれど、自分のために、彼を暴きたいと思うしさらけ出してほしいとも思う。

「コーヒーの御礼に質問回答をひとつ」

「コーヒーだけじゃあ安いよい」

適当にデスクを整理してタイプライターに紙をセットしていれば、カップを持った右手をぐっとこちらに突き出したエースが左手には煙草を持って立っていた。先ほどまで持っていた本は腋に挟まれている。
俺が言うと、エースはケチくさ、と呟いた。聞こえてんだよ馬鹿野郎。エースはちょっと考えるみたいに唇を曲げて、ポケットから煙草とマッチを取り出した。

「よくやった」

「俺は犬かよ」

「なんでもいいよい。で、何だ?」

エースは煙を吐きながら、角がちょっぴり剥けてしまっている茶色地に金字でタイトルの刻まれた、腋に抱えていた本を掲げた。俺に見せるように眼前に示すと、再び自分の胸元へ寄せて表紙をじいっと眺める。

「タイトルが違えだろ」

エースはすごく不満そうだった。それは子どもが兄弟とじゃんけんをして、欲しかったほうのケーキを取られたときのようなわかりやすく拗ねた声色だったけれど、表情や纏う雰囲気は大げさに言えば絶望に近い。どうして、うそだろ?そう掠れた声で馬鹿みたいに繰り返すしかできないあの感情。俺も英国に住んでいた頃、トッテナムが負けるたび経験したものだった。

「変えたんだよい。その本のタイトルが『トロヴァトーレの牢獄』だったのは初版だけだ。それも、その頃まだ俺は無名だったから、大した数じゃねえ」

マッチを擦って火をつける。消えたマッチを灰皿へ放り、デスクに寄りかかるように腰掛けた。コーヒーは、カップに顔を近づけただけで火傷しそうなほど熱い湯気を立てている。外で新聞屋のシャッターが開く音が聞こえた。

「なんで、変えちまったんだよ」

「特別すぎたんだよい」

「この本が?」

「いいや。イル・トロヴァトーレがだ。出版したあとすぐに、使うにはまだ早すぎたと後悔した。だから変えた。それだけだい」

エースが薄く口を開き、何か言いたそうにしたのを見て俺は自身の唇に人差し指を立てる。エースは従うみたいにぐっと唇を噛んだ。とても素直な反応に思わず微笑む。

「この先はコーヒーや煙草じゃ釣り合わねえくらいにゃ高えぞ」

エースはまた唇を曲げた。そして、ぱっと明るい笑顔を向ける。

「じゃあ飯だな!」

「いらねえよい。朝は食わねえ。仕事するんだ、さっさと出てけ」

エースは両手を挙げて降参のポーズを取ると、苦笑いを浮かべて部屋を出た。扉が閉まる。数秒それは半開きのままだったけれど、俺がタイプライターに日付を打ち込むと、がちゃんと音を立てて完全に閉まった。
頬杖をついて扉を見つめる。まったく、人との距離の取り方がへたくそな男だ。彼はサッチとの食事に顔を出すだろうか?読めなかった。俺はため息を吐き、そのサッチとの食事までに終わらせるべきつまらない仕事を片付けてしまおうと、がりと顎を掻いた。







11.06.05
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