「おい。似合いすぎて怖ェよい」
「うるせえな!」
顔を洗い、朝食の前に着替えてしまおうと自室に戻る途中、倉庫からひょっこり姿を現したエースはまだ寝間着のままだった。常の黒いハーフパンツよりわずかに丈が短く、ゆったりとした麻のズボンのウエストからは、左右長さの違う紐が無造作に垂れている。デッキシューズの踵は潰され、上半身には洗濯のしすぎでちょっぴり色の褪せた黒いTシャツを身に着けている。そんな姿は見慣れているし、俺の目に留まったのは彼が肩に抱えている長い虫取り網だった。
「籠はいらねえのかよい虫捕り小僧」
「いらねえよ!だいたい、朝いちばんに顔を合わせたらまずは“おはよう”だろ」
エースはそう言って虫捕り網を俺の頭にすっぽりかぶせ、すぐに外した。寝起きの働かない頭とうまく動かない体では文句を言うのもめんどうくさくて、俺は代わりにあくびを零す。エースは笑った。俺は軽く指先で乱れた髪を払う。
「食堂行く前にちょっと海見てみろよ。すげえぞ」
彼はそう言って、階段を一気に3段のぼり、あっという間にその姿を消した。
食堂でトーストにピーナッツバターをたっぷりと塗り付けて、コーヒーを持ち、腰かけることなく食堂を出た。外がやけに騒がしいからだ。俺とて楽しいことは大好きだ。船員たちが尋常でないほどにピーチクパーチクいっていれば、じっくり座ってなどいられなかった。
デッキに出る前に丸窓から外を見れば、昨夜の嵐がうそみたいな太陽の反射光に目を細める。水面に散るこんぺいとうのようなかたちをした朝の光は悪くない。少々寝過ごしたことをちょっぴり後悔する。
光っているのは水だけではなかった。そこにはたくさんの品々が瓦礫と一緒に浮かんでいた。それは特に珍しいことではない。この海において難破船やそれらの残骸をかき分けて進むことはむしろ日常茶飯事である。ただ今回は、大破した船が積んでいたのであろう品々が、いつもとはまったく違っていた。そこにはひとつの世界があった。
俺は最後の一口を押し込んだ時に指についてしまったピーナッツバターを舐めとり、その手を窓に押し付けた。ぐっと顔を近づけて目を凝らす。砂漠の国の煌びやかな金食器はひときわ光を呼び寄せて、太陽と同じくらいの眩しい光を放っている。難破してそう時間が経っていないことを思わせる濡れた書物の表紙の文字までは見えない。南国の女が着るドレスは幸いなことに無人のようだ。ノースブルーでしか見ることのできない植物とサウスブルーでしか見ることのできない植物が一緒になって泳いでいる。まるで世界展覧会だな、と俺は思った。そこでは各国の様々な名品が日の目を見ていた。
船員が数人海からぷくぷくと顔を出す。なるほど、エースも何かほしいものがあったけれど海に入ることができないから、網で捕ろうとしたわけだ。そのようすを想像すると微笑ましくなって、俺は空になったコーヒーカップを窓枠に放置して階段に足をかけた。さて、末っ子はほしいものを手に入れることができただろうか?
デッキにはまるで漁船みたいに、獲ったり釣ったり引っかけたりした品々が濡れそぼったまま散らばっていた。誰かがほしくてとってきたものか、まちがえて拾ってしまったものなのか、まるで見分けがつかない。俺も海に入れないので、この中に何かめぼしいものはないかと歩いて回ってみる。豪華な装飾の施された女物の靴を手に取る。とてもきれいだ。しかしいらない。誰もいらないだろうと俺はそれを海に戻した。
日陰で背中を丸めるエースを見つけ、足を止める。あぐらをかき、そこに乗せた何かをいじっているようだ。両腕の小さな動きと時折首を振って髪を払う仕草以外に変化は見られない。
「何やってんだい」
「ううわあ!な、なんだよマルコ、おどかすなよ」
「ずいぶん集中してんじゃねえかい」
驚いた拍子に手を滑らせたのか、彼が腕に抱きしめるそれは弦楽器だった。弦が張ってあるからそうわかるだけで、不思議なかたちをしたそれをどこかで見たような気はするけれど使い方はわからない。エースは俺の視線を追うようにして楽器を見る。そして苦笑いを浮かべた。
「鳴らねえんだ。湿気に弱いのかもしんねえ」
「弾けるのかい」
「そんな気がするだけ」
「名前は?」
「さあ。知らねえけど、ガキの頃拾って遊んでた楽器に似てる」
そう言いながらエースは脱いだTシャツで楽器を拭き取る作業を再開する。その表情があんまりにも必死だったので、俺はエースの手首をつかんでそれをやめさせた。エースは不審そうに眉を寄せたけれど何も言わない。指をくいくい動かして寄越すようにジェスチャーすると、エースは一瞬戸惑ったけれど素直に両手で楽器を差し出した。
「夜には返すよい」
「直してくれんの?」
「俺がか?馬鹿いうんじゃねえ。楽器なんざマラカスが限界だよい」
「ぶふっ」
「笑うな」
肘で小突くとエースは頭を押さえ、よろしくお願いしますと言った。俺は肩をすくめる仕草で答え、船室に足を向ける。楽器なんてデリケートなもの、素人がいくらがんばったって直るわけがない。音楽の心得のある人物を数人頭に浮かべながら、さて誰に頼もうか、別に誰でもいいかと廊下をぎしぎしいわせていれば、ビスタの部屋から口笛が聞こえてきた。足を止める。まあ、悪くない。俺は彼の名を呼びながら、ドアをノックした。
結局ビスタと音楽家連中が7人、円をつくってどうにか楽器の音を取り戻してくれた。彼らはそれを食堂でやったので、昼食をとりにやってきたエースは音が鳴るまでそれをじっと観察していた。俺もフィッシュ&チップスとアボガドクリームをつまみながらぼんやりと眺めていた。彼らが次から次へと取り出す見たことのない器具や細やかな手さばきは単調であるのに不思議と飽きがこなかった。泳ぐ犬が陸地にたどり着くまでなんとなく目が離せない、あの感覚に似ている。
音楽家のひとりの太く爪の割れた指が弦をはじくと、重い音が鳴った。エースはそれを聞くと乗っていたテーブルから飛び降りて円をつくる男たちをかき分け、大事そうに楽器をとった。
「直った!ありがとう!」
「いや、直ってねえよ。そりゃあ本来もっと高い音を出すもんだ。音が鈍い」
「いいんだこれで。俺が知ってるのはこの音だから」
むかし彼が拾ったというそれも、捨てられていたくらいだからきっと壊れていたのだろう。プロ意識からか、困った顔でだけどと手を伸ばしかける音楽家に、礼を兼ねてラムの瓶を投げてやる。
「いいんじゃねえかい。本人満足してんだ」
そうだな、と音楽家は酒瓶を開けた。楽器に使ったオイルのにおいをかき消すように酒のにおいが漂う。いつものにおいだ、と俺は思う。
控えめに、確かめるみたいにぽろぽろと音を立てていたエースが、誰かが置き忘れたジャケットのボタンを引きちぎった。
「むかしこれを弾いたとき、ボタンを使ったんだ。そのあと石を使ってみたら、切れちまった」
「指じゃ弾けねえのかい」
「あんたは何も知らねえな」
得意げに言うエースに腹が立って、無防備にぶらぶらしていた脛を蹴ってやれば、悲鳴をあげて飛び上がり、笑った。
ばかみたいにじゃらじゃら音を鳴らすエースを想像していたのだけれど、彼はとてもクールにそれを弾いた。いつのまにか昼時の食堂は静まりかえり、鈍く美しい旋律だけが響く。
誰かが鼻をすすった。気付いたのは俺だけだっただろう。音の主はかんたんに感情を悟られる男じゃない。
俺が視線だけで見上げれば、すべてわかっている、というようにジョズも視線だけ俺に落とした。俺たちは本能的に知っているのだ。美しいものは失われる。エースの奏でる音は、いったいどこで覚えてきたのか、貴族社会を思わせる上品で美しい音色だった。
俺は目を閉じる。失われるのがあの楽器ならばいい。だがあの楽器を奏でるその手が失われたとき、俺はきっとこの日を、この音を、この曲を思い出すのだろう。
あんなに執着していたくせにあっさりとそれに飽きたエースに、曲名を訊ねた。エースは困ったように言うのだった。
「名前なんて知らねえ。でもむかし、親友が歌ってくれた歌だよ」
フェーブスは地から昇り
11.05.26