毛布を抱えたまま3ブロックほど歩くと地下鉄の駅があった。来るときはバスだったけれど、夜になると本数が減少するからすこし歩くぞとマルコは言った。
ここで待ってろ、と彼は言って、人波に消えていく。毛布を抱いている間抜けな姿の男ひとり残して行くなんてなかなかに薄情な奴だ。俺はとりあえずそれを置き、壁に寄りかかってずるりとしゃがみこんだ。

家具屋の男はとても不思議な男だった。あまりにもあからさまな、俺の大嫌いな探るような視線を向けてくるくせに、その視線には俺への興味がまったく感じられない。そこには昆虫博士が昆虫図鑑を読むような気怠い空気だけがあった。
しばらくぼけっとしていると、老人が俺の隣に折りたたみ椅子を広げ、南の異国の地で見た木製の楽器を吹き始めた。老人の足元に置かれたクッキー缶に2枚のコインを投げ入れた紳士が、ついでみたいに俺に煙草をくれた。俺は礼を言って、数秒間紳士の後姿を眺め、その姿が見えなくなるとそれを吸った。
隣のこの老人はきっと俺と同じなのだろうな、と思う。その日必要な小金だけを稼ぐには、絵を描くか楽器を弾くか、それがいちばんかんたんで効率がいい。身動きもとりやすいし、さほど体力も使わない。

冷たい風が襟まわりから入り込み、思わず肩を上げる。夜は冷える。早くこの毛布にくるまって眠りたいと俺は思う。

マルコはすぐに帰ってきた。彼は左手に夕刊を丸めて持ち、左腕には紙袋を抱えていた。紙袋の中身はよく見えないけれど、ウェルチのグレープジュースが覗いている。右手にはテイクアウトしたコーヒーが2本刺さっている紙トレイ。

「サンキュ」

「ブラックでよかったかい」

差し出されたトレイに遠慮なく手を伸ばせば降ってきた言葉に驚いて、マルコを見る。疑問を振ったくせに、柔らかく細められた目元は確信に満ちていた。
彼が初めて俺に出してくれた飲み物はカフェオレ。今朝俺が自分で用意したのはブラック・コーヒー。

「まったくよく見てるよ」

「書き始めるまでは、おまえの観察が仕事だからよい」

舌で感じるコーヒーは指で感じる温度ほど熱くはなく、昨夜の雨を彷彿とさせた。空気は冷たく、風は肩を震わせるが、実際にあたる雨粒はどこかぬるい、春そのもののような雨。


マルコの家へ戻ると、今朝は気が付かなかったけれど、掃き溜めのような外観に似合わない新品のにおいがした。彼はほんとうにここで生活することはさほどないのかもしれない。
キッチンカウンターに並べられた紙袋の中身はウェルチのグレープ・ジュース、ジャックダニエルの小瓶、ピーナッツ・バター、3冊の大学ノート、紙に巻かれたオレンジ。それらは今すぐに使うわけではないだろうに、マルコは何かの準備をするみたいにそれらをきれいに一列に並べた。そうしてから、ジュースとピーナッツ・バターを冷蔵庫にしまった。

俺が何も言わなければ、マルコは何も言わない。彼はまるで俺が存在しないみたいに、ただ彼自身の日常を過ごす。勝手にバスルームに行って用を足し、洗口液で口をすすぎ、ソファに座ってオレンジをかじりながら新聞を読んだ。彼は俺を客のようには扱わない。しかしふたつ用意されたオレンジだけが、この空間にふたりの人間がいることを主張していた。
マルコが歯を立てるたびにオレンジの気持ちのいい陽だまりみたいなさっぱりとした香りが広がり、口元を見ると彼がかじるたび小さなしぶきが飛び散った。浅黒い肌、握られたオレンジ、太陽に焦がされたあまりきらきらしていない痛んだ金髪、短めの爪、大きな体躯。彼もまた南国の生まれなのかもしれないと俺は思った。

「俺もいいか」

「そのためにふたつある」

こちらを見もしない男に肩をすくめる。好きに過ごせと言われたけれど、正直な話、特にやることもない。俺はオレンジをかじりながらキッチンカウンターに寄りかかり、相変わらず開け放たれたままの書斎のドアを見つめた。

「エース。何を考えてる?」

すっと目を細めたマルコの視線は俺だけに注がれている。観察ね、と俺は思う。

「別に何も」
「答えろよい。考えたことを口に出せ。おまえの全部を俺に教えろ」

いくら仕事のためとはいえ、よくもしらふでそんなせりふを吐けるものだなと苦笑を浮かべる。マルコは不審そうにすこし眉を寄せた。無自覚かよ、質が悪いな。

「こんな部屋で、あんな本が書けるわけがない」

「…言ったろう。つまんねえ仕事するときにしか、この部屋は使わねえ」

「俺はつまんねえ仕事かよ」

からかうように言うと、マルコはちょっとびっくりしたみたいに首を伸ばして俺を見た。そのすっと細められた視線があからさまに上から下へ、舐めまわすように俺を見る。凝視する視線を向けられた人間の大抵が経験するような淡くむず痒い緊張が、重い煙草を吸ったときみたいに食道を狭くする。齧ったオレンジはすっぱかったはずなのに、口の中には苦味ばかりが広がった。

「おまえには太陽が似合いすぎる」

とマルコは言った。

「俺が知りてえのはそんな普通のおまえじゃねえ。その本質にある、この街の路地裏みてえなおまえだよい」

俺は思わず顔を赤くした。怒りでも羞恥でもなく、単純な動揺からだった。

「お、れは、別に…そんな、あんたが興味持つようなすげえもん背負ってるわけじゃねえ。俺はただ…」

「…そんなふうに、表情、変えられるんじゃねえかい」

柔らかく広がった微笑みに、あんたこそ、なんて軽口を返したかったのだけれど、言葉を発したらその声に感情が乗っかってしまうような気がして、結局俺は最高にかわいくない笑顔でマルコに向かって舌を出すことしかできなかった。
俺だって馬鹿じゃない。もし今マルコとの距離がこんなに開いていなかったなら、彼の座るソファのその隣にいたのなら、彼は間違いなく俺に触れているだろう。俺にはそれがわかる。

「さ、それで?明日はどうすんだ?」

話題の変え方は、すこしわざとらしかったかもしれない。しかしマルコはからかいもせず、顎に指を添えて本気で考えているみたいだった。

「例のつまんねえ仕事がひとつ締切近えから、俺は書斎にこもるよい。昼食はサッチと打ち合わせがあるから外に出る。昼間は好きに過ごせ。まあ、気が向いたらサッチにその顔見せてやれ」

「オーケー。昨日の店?」

「いつもあの店、あの席だよい」

俺は頷いて、買ってもらった毛布を広げた。店主の煙草のにおいが染みついていた。







11.05.02


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