「あ、マルコ、俺これでいいよ」
「てめえ俺の部屋にそんなファンシーなもん持ち込むなんざいい度胸じゃねえか」
「オレンジの何がファンシーなんだよ」
「暖色はだめだよい」
「意味わかんねえ!」
これにする、とエースは手に取ったオレンジの毛布の両端をぎゅうと握った。駄々っ子みたいに。その手を見つめると、あかぎれがひどいことに初めて気付く。旅人の手だ、と俺は思った。
「おいマルコ、俺の店で煙草吸うんじゃねえ。絨毯ににおいがつくだろうが」
ああまったくふたりしてうるさい、すこし黙れという意味をこめて両耳に小指を突っ込めば、鋭く尖った万年筆が飛んできた。片足立ちになってそれを避ける。床にさくりと突き刺さるその鋭利さを見ればなかなかの代物であることは容易に想像できるが、この男は本当に煙草と絨毯以外に執着しない。そんなだからいつまでも独り身なんだよ、とはサッチのせりふだっただろうか。そういう彼も独り身なわけだけれど。
「てめえだって吸ってんじゃねえかよい」
「俺はいいんだよ。これは絨毯に合うからな」
イゾウは微笑んで、斜め上に向かって煙を吐いた。それはきれいな線になって彼の唇から紡ぎだされ、この空間の一部であるかのように美しく霧散する。ただ煙草を吸っているだけなのにこんなふうに見せられるのは、俺の知る限り彼だけである。
毛布なんてかさばるものをわざわざ隣町まで買いに出たのは、この店の店主であるイゾウが馴染みであるからにほかならない。サッチと同じくカレッジ時代からの付き合いであるけれど、俺もサッチもそれなりに老けてしまったというのにこの男はいつまで経っても変わらない。しわのない顔、白い肌、たわわな黒髪。その神秘性は家具商という職業にぴったりのように思えた。うさんくさく、品が良い。まさしく鏡だ。
「ところでだ。あの坊主はどういった風の吹き回しだ?」
声を落として視線を流すイゾウにつられるようにエースを見れば、下唇を噛んで真剣にカーテンを見つめていた。ワインレッドのサテン・カーテンだ。エースの趣味だとは思えなかったが、物珍しいだけなのかもしれない。決して触れようとはせず、しかし熱心にその紅を真っ黒な瞳に映している。
俺は何も言わず、足元に刺さった万年筆をつま先で軽くつついた。すこしの衝撃で、それはぶるんぶるんと揺れる。イゾウは納得したように、2、3度首を小さく縦に振った。
「書けるのか」
「あぁ?」
「俺から見りゃあ、あの坊主はおまえとはずいぶん遠いところにいるように見えるがな」
エースを見つめるイゾウの横顔には微笑が浮かんでいる。それがどういった感情を表しているのかはわからない。俺がエースのような男をテーマに書こうと思ったことがおかしいのかもしれないし、自分の愛する家具を見つめるエースの熱心な姿が微笑ましかっただけかもしれない。
「ああ、遠いよい。だから傍に置く」
俺はそれだけ言って煙草を吸った。イゾウは俺の肩に軽く手の甲をあてただけで、それ以上咎めはしなかった。
エースを見ていると、勝手に頭の中に言葉の節々が浮かんでくる。キーを叩きたくて、叩きたくて、仕方がなくなるのだ。こんな仕事をしているとそんなことは別段珍しくもないが、人間に対してそういった峻烈な創作欲を感じるのは初めてのことだった。だいたいにおいてそれは形而下のものに対して感じたり、また、自然と触れ合ったときに感じたりする。
ヤニ切れのような感覚に襲われた。気が急いて、呼吸が浅く、喉が詰まったようなかんじがする。
「イゾウ、持ってるだろ。ちょっと貸せ」
「何を」
「タイプライター」
イゾウはたっぷり数秒かけて煙を吐ききると、また更にたっぷり数秒かけてエースを眺めた。エースはこちらの様子に気付かない。カーテンの前を去り、両手をポケットにつっこんでだらしなく猫背になり、壁にかけられた絵画を眺めている。
イゾウは最後に俺に横目で視線を流したあと、何も言わずに奥に引っ込んだ。彼は俺がペンで文章を書けないことを知っている。文字が書けないというわけではない。しかしペンにインクをつけると、その瞬間、気分が霧散してしまうのだった。ある意味特殊な職業だから、そういったこだわりを持つものは少なくない。自分のタイプでしか気が乗らないという男もいるし、逆に手書きでないと書けないという女もいるし、自分は口に出すだけで助手にタイプさせる詩人もいる。俺は、タイプライターであればどこのメーカーでも誰のものでも、それでよかった。
イゾウに礼を言い、カウンターの中に腰掛ける。背もたれのないその椅子は慣れなくてすこし不安定だったが、何度か腰で歩いてちょうどいい位置を見つけると、俺は口の前で両手を組み、エースを眺める。
書けるはずがなかったのだ。俺は彼のことをほとんど何も知らないのだから。
しかし、知る前の彼を記録しておく必要があるように俺には感じられた。新鮮な気分のまま、彼の行動に持った疑問が解決される前に、客観的なうちに、エースの一瞬を逃してはならないような気がしていた。
タイプを始めるとすぐにエースは音に気付き、振り向いた。しばらく驚いたように目を見開いていたけれど、ぽかんと唇を開き、数度視線をさまよわせると、照れくさそうに笑った。
「なんだよ、マルコ、恥ずかしいじゃねえか」
「なんでだよい」
「絵のモデルでもしてる気分」
おどけたように顎をひくエースに笑ってしまう。それを見たエースは満足そうに笑って、一瞬切なそうに視線をおとしたあと、横目でちらとイゾウの様子を確認した。イゾウは壁によりかかり、窓の外を眺めながら細く煙を吐き出しているだけだった。
「なあ、マルコは俺を書くだろう」
「ああ」
「それなら、俺は描いてもいいか」
ハーフパンツにくっついている小さなボディバッグのファスナーに手をかけるエースの指の動きを追うと、そこから出てきたのは何種類もの鉛筆だった。遠目に見ても、それらがひとつ残らず完璧にメンテナンスされているのがわかる。
「おまえ…絵、描くのかよい」
驚きすぎだろ、とエースは困ったように笑った。声が掠れた自覚があるくらいには、俺は驚いていた。粗野に見える彼にそんな繊細な特技があったなんて誰が思うだろう。
「ま、ありがちだけど。いちおうこれでその日必要な金を稼いで動いてる」
確かに、旅人には絵描きが多い。絵を描いてやったり、描いたものを売ったりして、飲食代やシャワー代を稼ぐのだ。あまり時間もかからないし道具もそんなに大きくはならないので、旅人にはうってつけの特技だった。
「あんたにモデルやれってんじゃねえんだ。俺、人は描かねえからさ。だから、つまり、あんたの身の回りのものとか、そういうものを描いたりして、過ごしていてもいいかってこと」
「四六時中一緒にいたくはねえってか?」
「…あんた嫌じゃねえ?」
「まあ…嫌だな」
そのやりとりに勢いよく笑ったのは、俺でもエースでもなくイゾウだった。眉をあげてエースを見ると、エースも肩をすくめてこちらを見た。
「ははは。まったく、マルコ、どうするつもりだったんだ。こんな若えの囲ってよ、確かにそりゃあ、酷だろう」
ぽん、と頭を撫でられて、エースは複雑な顔をした。俺やサッチには触るんじゃねえよなんて言うくせに、やはりイゾウには強く出ることができないらしい。俺は今までこの男相手に強く出た者を見たことがない。
「自由に過ごせ。俺が書き上げるまで逃げなきゃいい」
「まあ、あんたの小説のためなら?」
挑発的に、ふざけたようすで上半身を小さく左右に振るエースを睨んでやれば、彼は毛布買ってくれよな!とあっけらかんと笑った。
11.04.18