「思いっきり殴りやがって」

「先に全力の拳振りかざしてきたのはどっちだよい」

「…俺だけど」

「はい、おあいこ。仲直り」

「馬鹿にしてんだろあんた」

とぼけたように両手を広げると、ただでさえふてくされていたエースの顔がさらにぶすくれた。殴られたら殴り返すのはこの世の摂理だ。理性、道理、広い心。そんなものは聖人のかざす心の武器だ。俺にはそんなものは必要ないし、切れてしまった口の端を手の甲で拭うこの青年にとっても同じことだろう。

すっかり夜は明けて、しかし太陽の昇りきらない午前5時の空気は美しいけれどどこかよそよそしいかんじがする。生物の息吹や体温をいまだ隠し通し、動きなく、ただまんべんなく世界を冷やす。これから昇る太陽がより映えるよう、舞台を整えておくみたいに。何事にも下準備というものは必要だ。コーヒーをいれるためには沸騰した湯を用意しなくてはならないし、フライパンで何かを焼こうと思ったら油をひかなければならない。ぴったり6時に起きるには目覚まし時計をセットするし、外を歩くには靴を履かなくてはならない。

「9時になったら出かけるか。それまで寝ててもいいよい、エース」

「はあ?俺も一緒に行くのかよ」

そう言うエースの声は既に眠たそうで、最初のはあ?が疑問の声なのかあくびなのか判別がつかないほどだった。
俺はわかしなおしたお湯でコーヒーカップにコーヒーをいれて、エース用にカフェオレ・ボウルにたっぷりのミルクと適量のコーヒーを注いだ。エースのストイックな目元を見ると意外と甘いものがそんなに好きではないかもしれないと思えたので、敢えて砂糖は入れずにテーブルにシュガーポットを添えた。エースは俺がブラックコーヒーで自分がカフェオレであることに一瞬眉をぴくりと動かしたけれど、文句を言わずに両手でカフェオレ・ボウルを握って口をつけた。砂糖は入れなかった。


「おまえは必要ねえって言うかもしれねえが、どれくらいかかるかわからねえから適当に服は買っておいても困らねえだろうし、何より毛布が必要だな。ひとつしかねえからよい」

「毛布は要る、服はいらねえ。替えを持ってる。充分だ」

「せっかく屋根のある家のベッドで眠れるってえのにか」

「俺がいなくなったあと、処分に困るのはあんただろ」

その彼の表情に、こいつはまだ逃げられると思っているなと感じたが、果たして逃げる気があるのかどうかまではわからなかった。不思議な男だ。感情はすべて顔に出るというのに、その真意はじょうずに隠す。俺は書斎にあるタイプライターのことを思い浮かべた。今すぐそれを叩きたい衝動に駆られるが、コーヒーを流し込んで胃と気分を落ち着かせる。まだだ。まだ書き出しすら浮かんでいないのに感情にまかせてタイプしても、結局それは書き直すことになるしうまくいくわけがないのだ。

視界の端で、エースの頭がかくんと揺れた。人の家は落ち着かないから嫌だと言っていたのはどこのどいつだ。

「ほら、寝ちまえ。エース。ベッドは空いてるよい」

「起きたら朝飯がある?」

「あるさ」

そう答えればエースは眠った。ベッドで寝ろと言ったのに、と思わず舌打ちをするけれど、すぐに俺も眠ってしまおうと考えた。電話線を抜いてしまうとサッチがうるさいので、とりあえず正当な言い訳ができるようにしておこう、とわざと受話器をはずしておく。彼は時間を考えない。今電話がきたっておかしくない。まあ、今日が仕事の彼は出勤するまでばたばたしているだろうから、しばらくは安全だと思うけれど。






結局そのまま眠ってしまって、目が覚めるとバターのにおいがした。時計を見るとすっかり日の昇っている時間のはずだけれど、中途半端に開いたままのカーテンから差し込む皓々とした光はない。どうやら天気はまだぐずついているようだ。

「俺が起きたら朝飯があるって言ったじゃねえか」

「…食ってんじゃねーか」

「自分で焼いたんだよ」

でも、あっただろ?と言えばエースは鼻を鳴らしてキッチンに戻っていく。バターをはさみこんだ、スライスされたフランスパンに大口でかじりつきながら。
こうばしいかおりと、それをひきたてるバターの香り。俺の腹も空腹を訴える。常に不規則な生活を送っているため、もう昼食の時間であることも大して気にはならない。テーブルやコンロに目を向ければ、お湯もわいているようだったので、俺は眠る前に飲み残したコーヒーを捨てて軽くすすぎ、新しくいれなおした。エースも同じように昨夜出してやったカフェオレ・ボウルを使っていたけれど、中身はカフェオレではなく真っ黒なコーヒーだった。

「おい、俺の分のパン残してあるんだろうな」

「ねえよ」

「さっさと服着ろ。出かけるよい」

「ほんっとうに自分勝手だな、あんた」

エースは怒っているというよりも呆れているようだった。こんなに年下の男に呆れられるというのはおとなとしてどうなんだろうか、と思わなくもないが、俺は腹が減っているし、煙草は切れているし、毛布を買いにいかなくてはならない。それならば、早いほうがいい。



エースはおとなしく一歩うしろをついてきた。正直意外だったが、街を見回す彼の瞳には物珍しさこそ伺えたが特に興味を持ったようすもなかった。それを見て納得する。ここは、彼の求める類の場所ではない。
一度そう思ってしまうと、この自由な生き物を留めておくのはほんとうに正しいことなのだろうか、早々に手放してやるべきではないか、と考えずにはいられない。しかし俺はそれをしない。彼はまだ一度も逃げるそぶりを見せないし、俺は作家の本能に逆らえない。今もしこの場でエースが逃げ出したとして、きっと俺はなんとしてでも捕まえるんだろう。




通りでホットドッグと新聞と水を買った。歩きながらそれを食べ、ペットボトルをふたりで回しのみし、最終的にエースに持たせた。バスを待っているあいだ、座って新聞を読んだ。特に大きい事件も社会の動きもなかった。映画女優のゴシップが大きく取り上げられていた。

エースは一生懸命眉を寄せて一緒に新聞をのぞきこんでいたけれど、時折唸るのでよく理解できていないことを悟ることができた。ひととおりの読み書きができたって、やはり学んでいなければ経済用語を理解するのは難しい。結局エースが新聞を見て発した言葉はただひとつ、映画女優の写真を指差して「こどもがいる」と言った、ただそれだけだった。それはトップニュースのごとく取り上げられた妊娠報道で、紙の縦半分をまるまる埋めるくらい大きな写真が使われていた。女優の腹は大きかった。俺は「そうだな」とだけ返した。









11.04.12







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