彼が酒を飲むことに乗り気でないのは明白だったけれど、俺にも奢らせろ、つまんねえ待ち時間に付き合ってもらったんだからと、サッチがエースのためにオーダーした酒は彼の口に合ったようで、すっかり酒を飲む気分になったらしい。気付けばエースはすっかり腰を落ち着けていた。彼はジン・ベースが好きなようだった。とても意外だったのだけど、彼がオーダーするのはジン・ベースのカクテルばかりだった。シンガポール・スリングに至っては2杯も飲んだ。俺が頼んだウイスキーは苦手だったのかもしれない。そうだとしたら悪いことをしたなと思ったけれど、俺はカクテルには明るくないから仕方がない。

「あーあ。俺明日仕事だよ」

腕時計を見ながらサッチがため息を吐いた。時刻は既に深夜をとうに回っている。閉店も近い、そろそろ頃合いかもしれない。
追加オーダーをやめておくことにして、煙草に火をつけた。サッチとエースが今日の出会いを笑い合っている間、その話を聞きながら、この不思議な青年の横顔を眺める。
彼の敏感さは異常だった。街まで拾ってきてくれた、いうなれば恩人を目の前にしてぐうすかと眠る大胆さを見せていたくせに、約束の時間が過ぎていると知るとそそくさと退散しようとする。アンバランスな誠実さ。そのあまりの違和感に正体を探ろうと彼を見れば、エースはすぐに俺の視線の意味に気が付いた。寄せられた眉に浮かぶのはただ純粋な警戒だった。見ないでくれ、たのむから。厳しい目元に内在する一抹の必死さを無視できるほど、俺は無感情な人間ではなかった。

「しかしおまえがマルコの本読んでたとはなあ」

蒸し返された話に、どこか遠のいていた意識が戻ってくる。眠りから覚めたばかりのような感覚に、すこし飲みすぎたのかもしれないとこめかみを押さえた。頭痛はしない。だがすこし疲れている。アルコールとたばこと香ばしい食事のにおいにすっかり慣れきった鼻は、あらためて雨のにおいを拾った。店のドアは開け放しになっていた。

「あのなあ、馬鹿にすんなよ。確かにまともに教育なんか受けちゃいねえけど、ちゃんと読み書きはできるし、ちょっとだけなら楽器も弾けるし、この国の歴史くらいならちゃんと知ってるんだぜ、おれ」

エースは怒っているというよりも、眉を下げて困ったように言った。そんなに世間知らずに見えるのか、まいったな、っていうふうに。ソフィスティケートされたこの街ではそのようにしか見えない、ということは黙っておく。皆が黒いロングコートと黒い帽子を身に纏い、コートのポケットに両手を突っ込んで、斜め下に視線を遣りながら整備された歩道を足早に歩き去っていく、このような街に彼が順応する必要はない。

「俺の本のどこが好きなんだよい」

テーブルについた左腕にこめかみのあたりを乗せて、エースに向かって顎を突き出す。エースは頬杖をついて、小指の先で唇をいじった。考えているというよりも、言葉を探しているように見えた。彼の中で意見は既に確立している。俺は読者を意識したことなんてないけれど、エースのそのようすは柄にもなく俺に喜悦の情を感じさせた。

「あんたの本は」

「ああ」

「なんつうか、その…」

「ああ」

「…だめだ、うまく言えねえ」

エースは寂しそうに笑った。その顔を見てサッチが「ほらマルコが意地悪すっから」と煙草の煙を吹きかけてきたのでテーブルの下で彼の脛を蹴ってやる。エースはどう反応したらいいのかわからないようだった。とりあえず苦笑いを浮かべて痛がるサッチを見つめている。俺は頭を掻いた。

「エースおまえ、あてがねえって言ってたな」

「え?ああ、そうだけど」

「しばらく俺んとこ居ろよい」

「え…嫌だ」

サッチが勢いよくテーブルに額をぶつけた。両腕で腹を抱えて、体を右に捩ったり左に捩ったり、後ろに倒れそうなくらい仰け反ったり、全身を使って大笑いしている。俺は右の目尻がひくりと引き攣るのを感じた。エースは俺の言葉に対し、低い声で、心底嫌だというような顔をしていた。
あまりにもあからさまな反応をしてしまったことに罪悪感を感じたのか、彼は両手を顔の横で広げてしどろもどろになった。ちょっと待て、落ち着け、というようなそのジェスチャーは未だあっはっはっはと声を上げて笑っているサッチに対してのものか、目尻の震えがおさまらない俺に対してか、それともどもっているエース自身に対してか。

「いや、違えんだ。マルコが嫌とかなんじゃなくて。俺、その、人の家とか、そういう場所がだめなんだ。慣れてないっていうか、落ち着かないっていうか、逆に疲れちまって」

こういうところでなら眠れるのになあ。そう苦笑してエースはテーブルを撫でた。ようやく笑いがおさまったらしいサッチはまだ肩で息をしながら心臓のあたりを右手でおさえている。

「なんだそれ、エース。おまえどんな生活してんだ」

サッチの呆れたような声に、エースは大きく肩をすくめて、頬にかかった髪を払うように首を振り、とぼけた顔をした。何も言いたくないけれどうまいごまかし方が思いつかない人間のする仕草だ。はあ、とため息を吐く。そしてエースの荷物を掴んだ。

「えっ、おい、マルコ?」

「行くよい」

自分の上着とエースの荷物を左手にひとくくりに持ち、立ち上がる。空いた右手で適当に札を数枚テーブルに放り、椅子をひいた。

「足りねえ分はてめえの分だ。自分で払えよい」

「はいはい。俺は明日お仕事なんでおとなしく帰りますよ。電話だけは繋がるようにしとけよ、マルコ」

「いつも繋がんだろ」

「繋がんねえから言ってんだろうが」

サッチは俺が放った札を数えて、ごちそうさまですと言った。多く払いすぎた。まあいいか。金なんてどうだっていい。ただ、サッチの分まで払うと思うとなんとなく癪なだけだ。

「ほら行け、エース。マルコんちすぐそこだから」

「だ、だから…!マルコ、サッチ!おれ嫌だって…!」

慌てたエースは立ち上がると同時に足をひっかけたらしく、よたりとした。その隙を逃さず腕を掴む。手に力を入れると、エースの体から力が抜けるのがわかった。

「なんだい、ずいぶん諦め早えじゃねえか」

笑ってやると、エースは唇を曲げて片目を細める。

「あんたらの世話になってなけりゃあ、なんとしてでも逃げ出すんだけどな」

飲み干したカクテルグラスの縁を持ち、手首のスナップを利かせてそれを振ると、彼はグラスの足をサッチの飲んでいるグラスにぶつけた。ガラス同士のぶつかる独特の透明な音がする。その音はなぜか笑いを誘った。仕方ねえな、と妥協の苦笑を浮かべるエースが飛びぬけて年下のくせに、その場ではいちばん大人の顔をしていた。








11.04.04




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