「こういう言葉がある。『手に入れるまでの冒険よりも、それを手に入れた快感よりも、それを手放す形而上的寂寥感が最も貴重である』ってな」
イゾウは細い指で本をめくった。彼の爪は男にしては長く美しいけれど、それは形だけであって、火薬の不吉な黒色がすっかりうつりこんでしまっているため色はあまりきれいではなかった。
彼がめくっているのは植物図鑑だった。なぜ彼がそんなものをこんなにも熱心に読み込んでいるのか俺にはわからない。
「ふうん。それって誰の言葉?」
と俺は聞いた。イゾウは顔は下を向いたまま視線だけでこちらを伺い、おもしろそうに眉をあげた。俺は先を促すように顎をあげる。彼は煙草を吸った。
「ブバルディア帝国首領ベゴニア」
俺は彼の手元の本を見た。彼はアルファベット順に並ぶ図鑑の、『B』という耳のついたページを開いていた。答えは明らかだったけれど、いちおう聞いてみることにする。
「それは実在する?」
と俺は言った。彼は俺を見る。そして視線を外さないままに、つまらなそうに煙を吐いた。
「さあな。いねえんじゃねえか。どうだっていい」
確かにどうだっていい。俺は納得してしまい、イゾウの横に無防備に置いてある角砂糖をつまんだ。イゾウはデスクワークをしたり調べものをしたりするとき、コーヒーの代わりに砂糖を食べるのだった。煙草を吸いすぎるから、コーヒーを飲むと胃が痛むのだと言った。
俺が静かな資料室でぼりぼり砂糖を食べていると、イゾウが耐えきれないみたいに肩を大きく揺らして笑った。
「馬鹿、噛むんじゃねえよ。舐めて、溶かすんだよ」
「おいエース、てめえこりゃあ何の冗談だ」
「おやつ。腹減ってねえ?」
「減ってる減ってねえの問題じゃねえよい」
机に向かい、ペンの羽を落ち着かなさげに左右にぱさぱさいわせていたマルコの背後からその首もとに腕を回し、抱きしめるようにして、その厚い唇に角砂糖をねじ込んだ。
唇に角砂糖を挟んだまま喋るマルコは今は完全に人型だっていうのに、その口がくちばしのように見えて俺は思わず笑った。するとマルコは不機嫌そうに目細めて、ぷっと音を立てて勢いよく角砂糖を吹き飛ばした。俺に向かって。
「なにすんだよ、髪べたべたじゃねえか。しかもよだれ汚え」
「おまえがそれ言うのかい」
顎を思い切り掴まれて、謝ろうにも謝れない。俺は両手をあげて降参のポーズをした。そのときに、左腕にひっかけていた砂糖のたっぷり入った包みも没収されてしまった。
「イゾウのじゃねえかよい。くすねたのか」
「違えよ!イゾウはみんなみてえに手加減してくんねえからな。悪いことはしねえよ」
包みに鼻を寄せてにおいをかいだり、片目だけ細めてのぞき込んだりと砂糖のようすを確認していたマルコは俺を横目でちらりと睨むと、すこしばつが悪そうに喉を鳴らした。俺に手加減する「みんな」の中に自分も入っているのだということに気付いたらしい。
「おいマルコその反応兄貴っつうよりむしろ父親」
「てめえは黙ってろ!」
平手で額を殴られる。マルコの手首のスナップの利きは鋭い。普段から羽をぱたぱたさせているからだろうか。マルコの体は歳の割にどこもかしこも柔らかくて、まあ、炎である俺もなかなかに体は柔らかいのだけれど。
「パンの耳でも揚げてもらえ。砂糖かけるとうまいよい」
ぽん、と投げられた包みを受け取ると、マルコは唇に残った甘い粉末をぺろぺろ舐めている。彼がひととおりそれを終えるとこっちを見たので、俺は笑って、ひとつマルコに分けてやった。彼は礼を言うかわりに眉をあげた。
ぼり、と音がする。
「マルコ、噛むんじゃなくて舐めて溶かすんだぜ」
「んなことしたら舌が擦れて今日はコーヒー飲めなくなるよい」
なるほど、確かにこんなにざらざらしていて固いものをずっと口の中で転がしていたら、粘膜も痛むはずだ。どうりで舌と上顎がしみる。今夜のメニューは刺激物じゃあないといい、と俺は思った。
マルコは静かに手を伸ばし、顎をあげるよう促すように輪郭を優しく撫でる。その手を払うと、彼はおもしろそうに唇を曲げた。
「やだよ。口の中痛えんだ。わかってんだろ」
「たく、遊ばれやがって。何て言われたんだよい」
さっきマルコに即座に否定された言葉をそのまま鵜呑みにしましたなんて言えるはずもなく、俺は唇を内側に巻き込んでガードしながらちょっぴり考える。
「…手放すときの形而上的寂寥が、いちばん貴重なんだってさ」
マルコは怪訝な顔をして、輪郭を撫で続けていた指を止めた。
「何の話だ」
「ブバルディア帝国首領ベゴニア」
「はあ?」
俺はマルコの唇の端にそうっと口付けた。音が立たないようにゆっくりとくっつけて、離す。
ブバルディア帝国首領ベゴニアの言っていることはなんとなくわかる。それが肯定的立場から唱えられているのか否定的立場から唱えられているのかはわからないけれど。そしてイゾウの生み出したこの人物の言葉が、実際は誰の言葉だったのかなんて、わかりはしないけれど。
やっとのことで手に入れたものをわざわざ手放す愚人もしくは偉人(それは提唱者の立場によって変わる)は、稀有であるということだ。
俺は聖人になりたいわけでもないし阿呆として名を残したいわけでもない。そういった大多数の人間には、手に入れたものを手放さなくていいという権利があらかじめ与えられているのだ。
だから俺はマルコを手放さないし、今のところ、手放そうとも思わない。
「そりゃあ実在する奴か」
案外マルコもまぬけだな、と俺は思った。花に詳しくても気持ちが悪いけれど。
「するんじゃねえかな」
と俺は言った。嘘ではない。すくなくとも俺の中に、その人物は存在している。
ブバルディア帝国首領ベゴニア
11.03.30