つん、と体に悪そうなにおいが鼻につく。しかしどこか癖になるそれに鼻をくんくんさせながら、両手をポケットにつっこんで、常より高めに足をあげて歩いていると、チューブをひとつ思い切り踏んでしまった。
鮮やかな青が壁の木目にすっかり入り込んでしまい、完全に落としきるのは無理そうだ、とポケットの中の両手はそのままに腰を曲げて壁をじっくりと観察する。
俺は思わずまわりをきょろきょろ見回したが、その際青い絵の具のこびりついた自身の足が視界に入って舌打ちをする。ここから水場まで誰にも会わずにたどり着くことは不可能だ。青い絵の具を纏ったブーツで壁の絵の具は俺だとばれる。仕方ない、踏んだのは俺だ。ごめん。謝った。文句あるか。思い切り息を吐く。俺は諦めた。

俺をきれい好きな船大工の拳骨という道へいざなった絵の具のチューブから顔をあげるとそこは予想通りマルコの部屋の前だった。絵の具のにおいに混ざってウイスキーが香った。

マルコはたまに部屋にこもって絵に色を塗った。絵は描かない。彼の絵がひどくへたくそなのだろうことは意外にもぐちゃぐちゃな彼の文字からも伺える。
マルコは絵を塗るとき、筆を使わなかった。彼はその指と掌だけを使ってキャンバスを彩った。だからこうなると数日は彼からはつんとしたにおいがするし、爪の先に入り込んだ絵の具を一心不乱に楊枝の先でかき回すマルコの丸まった背中を眺めることになるし、洗濯樽が彼専用になるし、とにかく数日は絵の具の残り香を嗅ぐことになるのだ。

それではマルコが塗る絵は一体誰が描いているのだろうか。
彼はそれをいろいろな人に依頼するが、ここ最近その役目はもっぱら俺なのだった。



「絵がへたくそだって、色で見せる画家はたくさんいる。あんたもそういう絵を描いたらいいんじゃねえの」

とある日俺は言った。俺は目に見えたものをそのまま描き写すのに長けていたというだけで、絵の良し悪しなんて美的センスはまるで備わっていないけれど、それでもマルコの色使いは好きだと思ったし、ビスタがしきりに褒めているのでそれは褒められるに値するレベルには到達しているのだと思った。
マルコは笑った。

「俺はただ色塗りてえだけだ。描こうなんざ思わねえ」

「ああ、そ」

話はそこで終わった。そしてある周期に達すると、彼はまた俺の部屋の扉をノックするのだ。おい、エース、何か描けよい。






ふと気付くと、俺は青い絵の具まみれになっていた。
わけがわからなくて呆然としていると、床の軋む音が痛むほど冷たい風と共に耳を刺激する。
振り向けばマルコがいた。彼もまたわけがわからないといったような顔をして、呆然と立ち尽くしていた。

「エース」

つばを飲み込むようなつっかえた音のあとにマルコが呟いた。呼びかけにも満たない、小さな声だった。

「…俺、どうなってる?」

「きたねえよい」

両手を広げてみれば、マルコは肩の力を抜いた。体中に飛び散った青を撫でてみれば、乾いていたり乾いていなかったりした。

「これ落ちっかな」

「落ちるよい。水溶性だ」

しゃがみこんでチューブを拾ったマルコが、つまみあげたそれを掲げて目を細めた。彼を見おろすのはなんだか新鮮なかんじがする。マルコは俺より背が高かったし、俺より高いところで戦った。すぐに頬杖をつく俺とは違い、たまに猫背にはなるけれど、上体をしっかり起こして座っていた。

「おまえは風呂にぶっこめばどうにでもなるが、こりゃあどうにもなんねえな」

マルコが見つめるその扉は間違いなくマルコの部屋のものであるけれど、真っ青に染まっていた。
真っ青、とは語弊があるかもしれない。それはきっちりむらなく塗られた様を彷彿とさせる。しかし実際は手あたり次第塗りたくったそりゃあもう汚らしい出来である。絵の具の小さなチューブ1本で扉ひとつ塗るのに事足りるわけがない。

俺はどうしてこんなことをしたんだろう。
きつく目を閉じた。本能はわかっている。しかしそれを口に出そうとすると、俺そのものが傷ついてしまいそうで怖くなる。心臓ごと、心臓に刺さったアイボルトをワイヤーロープで釣り上げるみたいに。無理に釣り上げようとすれば、ボルトは抜け、俺の心に穴が空く。そしてそれは暗闇に沈んでいく。もう二度と手に入らない。俺は俺を失うのだ。

「マルコ」

呼んでみれば、おそらく俺のためだろうタオルを抱えたマルコが、開きっぱなしだった扉の間から顔をのぞかせた。

「青、なくなっちまったから。次は、林檎を描くよ」

いじわるだ。
マルコは好きな色を好きなように塗る。海を赤く塗るときもあれば緑に塗るときもあった。けれど食べ物と生き物だけは、見たまんまに塗るのだった。
彼が自由に塗れる風景画を好むことは百も承知なんだけれど。

好きなように色を塗れるマルコはひどく自由な男のように見えた。しかし見たものを見たままにしか描けない俺は、いつまでも現実に捕らわれている。現実から逃げ出すのが、怖い。


アイボルトがゆるんだ気がした。
それを押さえるみたいに、マルコが俺の頭に手を乗せた。

「風呂行くよい」

「…ああ」

それでも俺は夢を見る。




与件をめぐり彩られるものごと









11.03.10

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