頭がだんだんと軽くなっていく。ああ、起きる、と思った瞬間、たくさんの情報が俺の中に流れてくる。
グラス同士のぶつかる音、なまりのない話し声、痰の絡まったような深い咳、ニスのたっぷり塗られた木の感触、ほとんど失われたパンの味、右手に掴んだ何か、ラッキーストライクとフィリップモリスのにおい、傍から聞こえる煙を吐き出す息遣い、椅子をひく音、湿った空気、レインコート特有のかさかさした音。
そうだ、雨が降っている。

俺は目を開けた。目の前には気だるげに煙草を吸う見たことのない男がいた。俺は特に驚きもしない。目を覚ましたらまわりの人間の顔ががらっと変わってしまっていた、なんてことは別段珍しくもなかったからだ。
俺が体勢を変えないままに口をもぐもぐさせると、視界にその動きが掠めたらしい、男は流した視線を慌てたように俺に戻した。

「おい、サッチ。食ってるよい」

寝起きはいい方ではあるけれど、やっぱりそれでもすこしぼんやりする。聞き慣れない名前に、それって誰だっけ、と思考を巡らせていると、椅子のガタガタいう音と共に視界に男がもうひとり。ああそうだ、これがサッチだ。

「よお、サッチ」

「よお、じゃねえよ。食ったまま寝る奴があるか」

ぺし、と伸びてきた手に叩かれてゆっくり起き上がると視界が揺れた。ゆっくり目を閉じて息を吸えば、すべてはまた正常に戻る。大丈夫、いつもどおりだ。

「こりゃあ失礼しました。どうも初めまして」

「ああ?…いや、こちらこそサッチが面倒を」

「かけてねーよ!面倒かけたのこいつだよ!世話になったのもおまえだよ!」

呆れた顔をしつつ、大胆なくらいの量の紙ナプキンを寄越してくれたサッチは、やっぱり兄貴肌だなあと思う。素直に礼を言って口元を拭うと、想像以上のパンかすがざらざらと紙ナプキンを滑った。
さて。大きく息を吸って肩を上下させると、テンガロンハットを深く被る。そうしてから指先ではじくようにつばをあげればちょうどいい深さになった。

「サッチ、本当ありがとな!それじゃあ」

「おいおい、もう行くのかよ」

驚いた顔で腰を浮かせるサッチにおされて思わず再び腰をおろしてしまった。
見知らぬ男を見る。彼は冷たさを感じさせない器用な無表情で俺を見ていた。無表情というのは威圧感やら冷酷さを表す表情のようなもので、その表情にそれらを滲ませないというのは並大抵の人間にできることではない。笑いながら低い声で罵声を浴びせるのと同じくらい難しいことだ。それほど、無表情の扱いというのは難しい。しかし男はそれを使いこなし、まったく意図が読めない瞳をこちらに向けていた。

「別にあてがあるわけじゃないって言ってたろ?なら、何をそんなに急いでんだよ」

「別に急いでねえよ。あてもねえし。でも、待ち人が来るまでの1時間だけって話だったし、相手このおっさんだろ?来てんじゃねえか」

サッチから男に視線を戻すと、男の目が細められたのがわかった。俺はその瞳を知っていた。はっと気付いたときにはもう遅く、嫌悪感を滲ませてしまった眉根に男のほうも俺が気付いたことを感じ取ったのだろう。音をほとんど立てずに立ち上がると、手首を振ってウェイターを呼んだ。そして俺の帽子を押さえつけたかと思うと、ゆっくりとそれを後頭部へとずらしていく。

「気ィ悪くさせたな。悪かったよい。謝る。俺におごらせろ」

人の好意は簡単に無下にしていいものじゃない。相手に失礼だ。俺はちょっと迷ったけれど、それじゃあと、1杯だけおごられることにした。




「それでよ、こいつがいつになっても新作出さねえもんだから、生活の目処がたたなくてどうしようもなく困ってるわけだ。エース、どうにかしてくれよ俺のために」

話題は自然とサッチとマルコの関係のことになり、その流れで彼らの仕事のことになった。話題には連鎖というものがある。流れ続ける小川みたいに。

「作家のマルコ」

俺が呟くと、ふたりは黙って俺を伺い見た。言葉の端に、疑問ではなく断定的な響きが混ざったのを感じ取り、サッチは不思議そうに、マルコは意外そうに。

「まさかエース、知ってんのか」

「まさかってなんだよ。さあ、確信はねえけど…あんたあれか、トロヴァトーレ――…」

ウェイターの腕が伸びてくる。店名も何も入っていない丸い紙のコースターを置き、アルコールのにおいをぷんぷんさせたグラスをその上に乗せる。小さく一礼しウェイターが去るまで、なんとなく言葉が途切れた。

「おいおい、1杯ってロックかよ。俺酔っぱらっちまうよ、こんなもん」

「ここのビールはまずいし、カクテルは適当」

マルコはそう言って煙草を挟んだ長い指をぴんと伸ばしてカウンターを指すように振った。そして灰が落ちそうになっていることに気づき、親指ではじいて灰皿にとんと落とす。その仕草には彼の性格が現れていた。サッチの灰皿のまわりはなかなか汚くなっているが、彼のそれはきれいなままだ。

「ところでおまえ、読んだのかよい」

「え?ああ、読んだ。初作以外は全部な。あんたの言葉は難しいから、すっかり理解できたかって言われたらできてねえかもしれねえけど。好きだぜ、あんたの本」

俺が言うと、サッチは声を出して笑った。どういう意味かと思ったが敢えて無視をする、というよりも、飲みくだしたウイスキーの喉を焼く感覚に、数秒間言葉を発することができず、その数秒間のあいだにどうでもよくなってしまった。








11.02.26



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