夜の空気をまんぷくに吸い込んだ、家無し人の被る毛布のような色をした冷たい甲板に座り込む人影は、逃れられない善悪の絶対的斟酌のような不気味さの塊のように見えた。
折った膝を抱くようにしているその腕に彼の名は見えない。もともと厚着をするたちではないけれど、毎朝霜のおりるほど冷え込む日々の中、軽くシャツ1枚羽織っただけの彼の姿には無計画さが伺えた。エースには決まったスタイルがある。しかし彼は馬鹿ではなかったし救いようがないほどの頑固者でもなかった。最低限の自己管理くらいはしっかりできる、ふつうの大人の男だった。

「今夜は星が見当たらねえな」

骨ばった膝に埋めていた顔を正面に向けたエースの視線は、どう見たって、星こそ見えないが黒にはなりきらない暗い空ではなく、黒よりももっと暗い色をした夜の海に向けられている。
月すらも浮かばぬ夜空は眩しくなんてないだろうに、彼は眉のあたりに手をかざして屋根をつくった。目を凝らして何かを探すみたいに。

「おまえが深夜に星空楽しむたまかよい」

「マルコこそ」

「俺は煙草吸いに来ただけだ」

「いつもは部屋でがんがん吸うくせに」

俺が甲板に出てから初めてエースがこちらを見た。数秒視線を交わすと、彼はまた正面を向き、膝に肘を立てた。そしてその腕の先にある手で目を覆う。

「あー…なんつうか、だめなんだ今夜は」

その言葉は俺には早くどっか行ってくれという拒絶の言葉にしか聞こえなかったけれど、残念ながら俺の指先の煙草はまだ長い。それを示すみたいにふんと鼻を鳴らすと小さく舌打ちが聞こえた。蹴っとばしてやりたくなったけれど、残念ながら俺の足は5メートルもの長さはない。至って標準的な人間の足だ。この場を動かない限りエースのところまでは届かない。

エースが時々不安定になることは知っていた。それは俺だけじゃない。しかし俺を含めた全員がそれを放っておいたのは、時間が解決すると考えたからだ。20年程度生きただけの若者の心の天秤は、すこしの風でもぐらぐら揺れる。

けれど放っておけなくなった。俺は彼のそれが誰もが持つ天秤などではなく、彼しか持たない崖の上からのロープだと気づいてしまった。それは命綱だった。そしてそれは頼りないくらいにぼろぼろに擦り切れてしまっていた。


エースは時間を忘れるほど長い間黙りこくっているように感じたが、彼が口を開くまでに俺が吸った煙草は1本にも満たなかった。
エースが息を吸い込む音が聞こえた。

「ずっと自分の存在に疑問を抱いていたくせに、俺は俺のいない世界が怖い」

俺は目を閉じて、こっそり唇を噛んだ。初めて見るポートガス・D・エースという男の弱さだった。誰にでも弱い部分はある。しかし彼は自分が今し方口にした言葉の重さを理解しているのだろうか?
していないな、と俺は思う。俺にとってそれは雲の上から投下された鉛玉を腹筋で受けるようなものであるけれど、エースにとっては生まれたときからずっとくっついている頭部の重さ程度のことにちがいない。
俺は煙草を挟んだまま右手を首に当てて、ぽきりと鳴らした。
物事の重さは人それぞれだ。人間の不思議。それを解明しようとは思わないし同一化しようとも思わない。それは優生学と同じくらい野暮なことだ。

「誰だって、自分がいない世界を想像するのは怖い」

自分が存在しないというのにめぐる日常。
太陽、月、朝、昼、市場の喧噪、人々の笑顔、焼かれる魚、売れていく店頭の煙草、土を濡らす雨、生まれるいのち。踊るジプシー、路地裏で奏でられる音楽、やまない滝、風になびくスカーフ。
それらは自身の存在を否定する。
それは簡単なことだ。ただ日々を生きているというだけで、俺のこの笑顔ひとつが、世界のどこかのペシミストの絶望を誘う。

「だが摂理だ」

「違いねえ」

なあ、おれは、この船に乗るまでそんな恐怖は知らなかったんだよ。
そう紡いだ唇に口付けた。どうやって5メートルの距離を詰めたのかさえ覚えていないけれど、俺の頭は冷静で、エースも意外と冷静だった。キスをしながら表情を伺うと、エースはおとなしく細めた瞳でじいっと俺を見つめていた。そこにはしっかりとした感情が、意志が存在している。キスは唾液の味しかしなかった。
唇を離した瞬間伝った唾液の糸を、エースは虫を払うような仕草で断ち切った。

「色気ねえな」

「色気が必要なキスかよ、これが」

俺は笑ってしまって、賞賛の意を込めて舌を打つと、エースも笑顔を見せた。その表情はもう征帆ではなかった。

「必要なやつが欲しけりゃやるよい」

「今はいらねえ。けど、必要になったら言うよ」

エースは笑って俺の肩に手を置き、そこに力をいれて立ち上がった。後ろ向きのまま船内へ向かう。おやすみマルコ!なんて、ふざけた投げキッス付きで。俺は右手でそれをキャッチするふりをして、握った拳に口付けた。エースは俺のことを指さしながら声を立てて笑い、ドアのむこうへと消えていく。
ほんとうに、物事の重さなんて人それぞれだ。
エースが軽く放った一言の蓋然性に捕らわれて、早くその時が来ればいいと思ってしまった自分に苦笑する。しかしあの瞬間見た彼の瞳に浮かんだ感情は俺と同じ重さだったんじゃないかと、そんな考えを捨て去るように海に向かって唾を吐いた。



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11.02.21



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