「…おい、サッチ。目の前に死体があることに気付いてるか」
「よお、マルコ。死体じゃねえよ。エースだ」
夜7時。
行きつけのコーヒーショップの扉をくぐれば、サッチはいつものテーブル席でビジネスバッグを広げ、指に挟んだボールペンで退屈そうに書類をぺちぺち叩いていた。彼の前には空っぽのコーヒーカップと灰皿が、いつもの位置に置かれている(サッチはなぜか腕を伸ばさないと届かないような場所に灰皿を配置する癖がある)。
彼の正面には、パンを握ったまま左頬をテーブルに押しつけて目を閉じる青年の姿がある。右の頬袋は見事に膨れ上がっている。そこにもパンが詰まっているのだろうことは容易に想像できて、俺は辟易した。
「さっきまで元気に喋ってたんだが、急に寝ちまった」
俺は煙草に火をつけながら、サッチの左手、青年の右手の椅子をひく。俺はこの席が好きだ。すわりがいいし、景色もいいし、隣の席との間隔も広い。だからなんとなくここに座るし、それはサッチも同じなのだろう。
座ったまま背もたれに思い切り体を預けて後ろを向くと、セルフカウンターから灰皿をひとつつまみ上げた。この席は、こういう便利なところも好ましい。灰皿がまんたんになれば座ったまま新しい灰皿が手に入るし、バルサミコスソースをこぼしてもすぐナプキンに手が届く。
「派手なガキだな。どこで拾ってきたんだよい」
「52番」
「そりゃすげえ」
足を組み、両手を顔の高さまであげて指を広げる。サッチは笑った。もうほとんど視線を走らせていない書類の存在を忘れかけているのか、その指先には力がこもり、紙には皺が寄っていた。
52番とはすごい。
どうすごいのかといえば、まともな人間ならばまず選ばない道である。まともな人間は53番を選ぶ。
そこは治安の悪い地域であるとか、そういうことではない。そこには何もない。道らしい道さえない。簡単に言えば、道路番号は名ばかりの存在する意味のない道である。世の中にはそういった類の道路を好む人種もいるが、そういった人間にとっても意味のないほど何もない道である。そこを通るのは無知な阿呆だけだ。
つまり、この青年は、ほんとうに馬鹿だ。
よそ者であることは姿を見れば一目瞭然であるけれど、本当に何も知らない流れ者らしい。
真夜中のカーボーイ、と俺は思った。
「それで?どうするつもりだよい。これ」
書類の無惨な姿に気付いていそいそとその皺を伸ばしていたサッチが視線だけ上げる。俺は指を振って青年を指す。彼はジャック・ニコルソンみたいに笑う。
「家に来るかと誘ったんだが、お構いなく。だってよ」
「ふうん」
会話は終わった。
「それで仕事の話だがよ、マルコ。俺はおまえのために枠取ってあんだ。けどおまえがその調子じゃあ、その枠ぱっぱとSF作家に取られるぜ」
「構わねえよい」
「言うと思った」
「わかってんだろ、サッチ。俺は書かねえんじゃねえ、書けねえんだ。気分じゃねえんだよい」
「作家ってのはこうだから、いつもエージェントが苦労する」
俺は天井に顔を向けて笑った。サッチの顔があまりに情けなかったからだ。
「俺は書きゃあ当たる。てめえにしか売らないようにしてんだから、そんくらいの苦労我慢しろ」
「まったくいいチームだぜ」
「棒読みで言うんじゃねえよい」
俺は隣のテーブルを片づけに来たウェイターにホットドッグのチリソースとラージサイズのアメリカンコーヒーを頼んだ。サッチもコーヒーをおかわりした。青年はまだ眠っている。
口の端についたチリソースを舌で舐めとりながら、青年の顔を眺めた。寝顔はあどけないが骨ばった眉骨や皮膚の薄い瞼からなかなかに精悍な顔立ちをしていることを想像するのはたやすい。頬に浮くそばかすは年齢とのバランスをうまいぐあいに保っている。
「旅行者にゃ見えねえな」
黒髪をすくうと、それはひどくぱさぱさしていた。癖っ毛によるうねりが外見的にそれをごまかしているけれど。慣れた者から見れば、少なくとも3年はこのような生活を続けているのだろうことは明白なくらいに彼の髪や肌は砂くさい。
「まったく、都会に似合わねえ奴だよ」
「おまえがそれを言うのかよい」
「こっちこそおまえにゃ言われたくねえなあ」
ホットドッグを食べ終わると、俺は口を指で拭ってテーブルに肘をついた。それが合図だったみたいにサッチが真面目な顔つきになったので、俺も心持ち身を乗り出す。
ビジネスの話だ。普段は軽口ばかり叩きあう間柄でも、金は稼がなければならない。
レインコートや雨傘とともに外の水気を連れてくる客の出入りと湿っぽいにおいに鼻を鳴らし、眼鏡をかけた。
11.02.14