短編 | ナノ

灰色の空が、落っこちそうなほど鼻先近くにあった。重く垂れ下がったみたいに息苦しく迫るそれは、もうじき破裂して、どろりとした中身が零れ始めてしまうように思った。月は見えなかった。醜い化学兵器のオイルが気化して蔓延する。腫れぼったい地上の夜は色を失くしていた。
立ち上がる気力も余裕もないので、退廃した土の上に身体を転がせるけれど、ちっとも寝心地はよくないのだ。ガスの臭気も慣れない。汚い。息を止めて、魚のように開けた口から肺に酸素を送り込んだ。機械のように兵器のように呼吸など要らなければよかったのだけれど、生憎曲がり形にも人間であるわたしには、その酸素は不味いと思ったのである。息をするのが辛い。

そうこうしている間に、五感のうち視覚と嗅覚はまるで役に立たなくなった。脳に酸素が回らないのだ。私は瞼を下ろした。聴覚を研ぎ澄ませると、マリには遠く及ばないけれど聞こえなかったものが聞こえるようになった。根絶やしたアクマのノイズの代わりに、北風が通り抜けるみたいに細くなったわたしの気道、それに混じって、歩み寄る生きた人間の鼓動。あ、わたしもまだ生きてるのか。


「なにやってんだお前」
「なに、が?」


横たわるわたしの傍らに仁王立ちしたまま見下ろしてきた神田は、不遜な態度のままその足でわたしの右腕がある筈の場所を、団服の上から踏みにじった。しかしそれによる痛みはない。そこは空洞であり、萎れた花のようにみっともなく潰れた袖が、踏みつけられただけだった。


「そういえば、」
「、」
「右腕、落としたかも」
「そうかよ」


毒が回りかけたので、袖を捲り上げて切り落とした。袖の上から古い包帯で締め上げた様は、酷く不恰好になった。アレンやクロウリーならしなくて済んだかもしれない。利き腕じゃないから、と薄く目を開けて神田に笑うと、今度は顔を踏まれそうになったので咄嗟に謝った。所謂幻肢痛なのか単なる切断面の痛みなのか、分かり兼ねる鈍痛だけが残る。


「助太刀にでもきたの」
「違ぇよばーか」
「…」
「回収しにきた」
「死体 を?」
「もうしゃべんな」


神田は背中に負った刀を気にしながらしゃがみこんだ。尊大な沈黙の中で、何故かわたしの視界を無理矢理覆った彼の掌だけは、優しく融解する。酷く不釣り合いであった。神田は乱暴に擦りつけるみたいにわたしの薄い瞼の上を撫でると、その手でわたしの頬に飛んだ砂埃を拭って、それから滲んだ血を舐めた。夢現の中で、舌の艶かしい温度に唾を呑む。身体は正直だ。卵と精子から生まれたわけでもないセカンドの賜物であるこの身体でも、下腹部が熱くなる。
神田は「やっぱ鉄っぽい」と言ったけれど当たり前だと思う。彼は自分の血を舐めたことがないんだろうか。細い指はやがてわたしの輪郭をなぞるように捉え、その手は再び瞼の上に終着した。暗くて温かい。


「おかあさん」
「あ?」
「エドガー博士言ってたじゃん、覚えてるよね」
「それがどうした」
「神田の手、あったかい」
「、」
「似てる気がする、お腹のなか に」
「知るかよ」


そりゃそうだね。薄く口だけ笑った。一度に喋りすぎて喉が閉塞する。拙い呼吸と共に辺りの不味い酸素をゆっくりと吸い込んだ。膨らませた腹がゆるゆると沈む瞬間、噴き出すように小さな脇腹の傷からごぽりと血が零れる。作られた静寂の中で、神田はそれを見て見ぬふりをしたのだ。わたしには優しい沈黙だった。それは、ありがたかった。今更だがわたしの血も赤いらしい。


「いつからだっけか」
「なに、が」
「名前で呼ばなくなったろ、お前」
「…だれを」
「言わせるか」
「ん、ごめ ん」


手を乗せたまま、神田はわたしの顔にかかった髪を器用に払う。唐突な彼の言葉に、わたしは死にゆく戦場でこうして予め作られたような思い出話に浸ることが滑稽に思えて、肩を震わせた。満足に腹を抱えて笑うことができないが、それは気にならなかった。なのに、別の衝動に泣きそうになった。


「なんかね、こわいの」
「こわくねぇよ」
「人間らしく なりたいな」
「何も考えんな」
「わけわかんないね」
「ああ、会話に、なってねぇよ」
「人間らしいって、どんなの」


脳みそはある。自分のじゃないやつ。よく知らないけど、細胞があって、血も流れる。でも違うの、わかるでしょう。人間は、穴から生まれた日を誕生日って言わないじゃん。それと同じ気持ちになった。苗字が、嫌い。言葉通り、取って付けたような苗字。それでも苗字で呼ぶようになったのは、特に理由もきっかけもないよ。言うなら、繰り返すことに意味があった。溶け込める気がした。


「わたしと神田でもできると思う?」
「なにがだよ」
「こども」
「、」
「…」
「いらねえよめんどくせぇ」
「はっきり、言うね」
「お前がいれば、いらねえよ」
「さっきから、否定ばっかだ ね」


彼の掌の下で、泣いた。夜明けの光が遮られる。手の温度で、涙と共に感情や思い出も溶けて流れ落ちていくような気がした。神田の声だけが響く。彼の言う通り、何も考えられなくなっていった。海に放り出されたように意識が沈む。


「目、開けんな」
「かん だ」
「めんどくせぇんだよ、もう黙れよ」
「ユ、ウ」
「、」
「連れて帰ってね、   」


細った声を聞き取ろうと、何も言わずに彼はわたしの口許に顔を寄せた。屈んだ彼の肩から黒髪が滑り落ちて、わたしの頬も滑る。ユウの髪が、好き。昔から、夜より澄んだ夜で、星みたいにきらきらしてた。明けない夜より優しい。「セカンドも、もう俺だけだ」不機嫌そうな低音は相変わらずだったけれど、細くて衰残したような声は、珍しいと思った。


「夜が明けたら、戦争も終わりだ」


そのままでいい。ユウはわたしの唇に貼りつけるように寄せていた耳を離してから、瞼に乗せたきり退けなかった手を、おろした。滑らせるようにずらした耳は次に、ゆるゆるとわたしの胸元に沈んで落ちる。あとはもう知らなかった。鼓動が消え入るのを待つように沈黙を横たえて、それから冷えた肢体を抱き締めたりキスしたり泣いてくれたりするのだとしたら、嘘を列べるよりずっと先に、早くしてくれたらよかったのに、と思う。彼には最期まで言わなかったが、戦争がなければわたしたちは生まれて来なかったしわたしは彼に出逢わなかった。


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